扉を開ければ、ここは精神科医療史資料室。5000冊は超えるだろうか。精神関係のあらゆる書籍が眠る。 「ようこそ」。書棚の向こうから顔をのぞかせたのは精神科医、岡田靖雄さん(93)=東京都杉並区。この国の精神科医療の生き字引と言っていい。
平和や憲法について話す岡田靖雄さん
◆資料室の名前にこだわった理由
私財を投じて2005年に創設したこの資料室は「青柿(せいし)舎」と呼ばれる。精史舎にする案もあったが、古くから人々の生活に恩恵をもたらしてきた「柿」にこだわった。「柿の半分は初夏に地に落ち、落ちた青柿(あおがき)は生食には向かないが、発酵させた柿渋は防虫や防腐など並々ならぬ効果を持つ」と表情を緩ませる。「柿渋は古来より民衆に愛された万能民間薬。悠久の歴史にあやかろうと。あとは、ぼく自身が周囲から『青くさい』と言われていたので、青の1字をいただいた」 岡田さんを精神科医療史に突き動かしてきたのは、1958年に精神関係の雑誌に掲載されたある論文だ。終戦時の45年の都立松沢病院に入院していた患者の死亡率40.89%という数字の高さに衝撃を受けた。「戦争の本質を何より語っていると感じた。戦争は弱い者を一番先に痛めつける」◆勉強会を重ね、社会運動につなげる
以後、岡田さんは臨床の傍ら医療史を読み解いてきた。「歴史とは過去のことではなく、現状を照らし出す光。それによって現状の立体構造がみえてくる。歴史から学べるものは現状の深い根だ」。年に数回同好の士を集めて医療史の勉強会を開き、その時々の問題に引きつけ、社会運動に結び付けてきた。 勉強会が最も活気づき、その礎を築いたのは今から60年前の64年、統合失調症を患う青年が米国大使を刺した「ライシャワー事件」を機に精神衛生法改正の議論が湧き起こった頃だ。当時の新聞は「野放しの精神病者」とことさら危険視し、強制入院を強化する必要性を説いていく。岡田さんらはその激流に抗(あらが)うように勉強会を重ね、地域の精神科医療の重要性を訴えた。 結局、65年成立の改正法は措置入院を強化したが、精神関連の活動拠点となる「精神保健福祉センター」の前身の精神衛生センターの設置や、通院医療費公費負担制度の新設といった地域に開かれた制度も盛り込まれた。精神科病院の運動会で患者や医療関係者らとともに楽しむ岡田さん(中央)=1959年撮影、本人提供
◆世界では病床数を減らしたが…
ただ、地域精神医療はこの国で根付かなかった。世界ではこの60年代を分岐点に精神科病床数を減らしたが、日本は真逆へひた走った。 日本の病床数の多さについては、この時代の法改正を巡る議論が引き合いに出されるが、岡田さんは首を横に振る。「ぼくは高度経済成長が引き金だと思う。戦争が終わり、追いつけ追い越せと農村から都市部に人を流入させ、農村部でなら生きていけた精神障害者が邪魔になった。『収容』した方が安くつくと精神科病院が量産されていった」 青柿舎にはある肖像画が掲げられている。1918年に精神疾患のある人が自宅の私宅監置に閉じ込められた実態をまとめた東大教授呉(くれ)秀三(しゅうぞう)(1865~1932年)だ。「我が国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし…」との言葉を残した。 岡田さんがこの言葉を知ったのは62年頃。「こんな言葉を吐ける人が東大にいたのは衝撃だった。だが、精神科医療の現場では全く知られていなかった。この言葉が省みられなかったことに、日本精神医学の正体をみた気がした」と憂う。書籍を手に精神科医療史の研究に励む岡田さん=1960年代撮影、本人提供
◆母の病をきっかけに医師を志す
岡田さんは福島で生まれ育った。「本が好きで、幼少期は本を読んでいた記憶しかない」という。 中学3年で敗戦。「神ながらの道」を説いていた教師が、ある日を境に、急に民主主義を唱え出した。 医師を志したきっかけは、岡田さんがまだ幼い頃、母親が異型のパーキンソン病になったことだ。症状が進むと、投薬の影響か、母親は盗み食いを伴う過食症状に。岡田さんにとって精神疾患は身近だったという。 1951年に東大医学部に。勉学に励んだが、当時の学びやは権威的で、今でもあの気持ち悪さは忘れられない。臨床の授業で、ある教授が実際の患者の身体で病状を解説。だが、説明が終わっても上半身裸で教授の横に座らせていた。患者は女性だった。「ここに学ぶべき師はいない」と精神科志望を鮮明にした。56年に医師になり、10年近く都立松沢病院で精神科医としてのまなざしを学んだ。 この国の精神科医療に「法の下の平等」はあったのか。 閉鎖病棟は「不潔病棟」と呼ばれ、汚物が壁に塗られ環境は劣悪。通常は1年で交代するが、岡田さんは希望して4年間担当。患者の入浴日に診察に行けばいいと言われたが、毎朝病棟に通い離れなかった。平和や憲法について話す岡田さん
◆思わぬ反響があった新聞投稿
患者の中には閉鎖空間のいら立ちか、興奮して衣類を破き、冬になると身体をブルブル震わせる人も少なくなかった。ある日「衣類の寄付を」と朝日新聞に投書し、思わぬ反響と1万点の衣類が寄せられた。だが「実態を暴露した」と都衛生局側から疎まれ続けた。 精神科医療はいつも社会から遠ざけられ、人権感覚をも失わせていく。岡田さんはその後、女性病棟の担当に。ある時、入院していた中程度の知的障害があった女性が、院内で男性患者と性的関係に。女性に面会に来る家族はおらず、「子育ては難しい」と岡田さんは不妊手術の対象にその女性を選んだ。旧優生保護法下、都の優生保護審査会も承認し、不妊手術には岡田さんも助手で立ち会った。 それから半世紀。2018年に不妊手術を強制された人らの国賠訴訟が相次ぐと、岡田さんはその事実を実名で告白。「当時は普通だったが、それはまぎれもなく全ての国民は個人として尊重される憲法13条を排斥する行為。精神科医療史を礎にしてきた者が語らないわけにはいかなかった」◆日本のやり方は「世界の三大精神科アビューズ」
いまだ続く虐待問題や安易な身体拘束、医師や看護師の配置基準が少ない精神科特例。日本の病床数の多さは、ナチスの精神疾患の患者殺害、旧ソ連の反体制運動家収容と並び、世界の三大精神科アビューズ(乱用)と語られる。 岡田さんは言う。「差別医療が徹底され、昔も今も違憲状態だ」とし、「精神科の病院運営はほとんどが民間任せ。民間の病院を擁護するつもりは全くないが、国は責任を持たなかった。その不作為を認めるところから全てが始まる」。◆「できることを進め、憲法を引き寄せていけばいい」
精神疾患を巡り差別的視点も根深い。「差別をなくす術(すべ)は常識とされていることを疑うことだ。それを重ねていると差別の芽も小さくなる。自分の頭で判断していくということだから」 例えば、世界保健機関(WHO)の「健康」の定義。「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態」とするが、岡田さんは全否定する。「完全に良好な状態の人間なんているのか。健康とは、悪いところを抱えてそれでも生きていくことだ」と説く。 日本の精神科医療をこう見据える。「例えば単科の精神科病院をなくし、一般病院の中に他科と同じように精神科を位置付ける。地域の人が気軽にサンダルで会いに行ける環境にする。これだけでも随分違う。できることを進め、憲法を引き寄せていけばいい」(木原育子)◆デスクメモ
医学部時代から70年以上、この国の精神科医療を見つめてきた岡田さん。「昔も今も違憲状態」という言葉は重い。戦後の日本で、なぜ憲法の保障する人権が届かなかったのか。今も生命、自由、幸福追求の権利が尊重されていない理由は? 社会に根ざす差別に向き合わなければ。(本) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。