1945年8月5日深夜から6日未明にかけ、前橋市街地の大半が焼失した「前橋空襲」の直前、群馬県元総社村(現・前橋市)の村議会議長だった人物が、空襲時は身を守ることを優先し、戦後の復興に備えるよう諭す言葉を残していた。遺族が発言を記録した文書を市に寄贈し、本年度中に開館する「前橋空襲と復興資料館(仮称)」に収蔵される。(小松田健一)

◆政府は、国民に空襲の消火義務を負わせ、避難を禁止していた

戦時期の小野沢一家。右端が豊作。前列左の男児が孫の利智さん=1944年ごろ撮影

 戦時期は「防空法」(戦後に廃止)が空襲時に国民に消火義務を負わせ、避難を禁じたことが被害拡大につながった。専門家は国の施策に背く言動を「大変な勇気と覚悟が必要だ」と評価する。  言葉を残したのは金融業も営む豪農だった小野沢豊作(とよさく、1949年に70歳で死去)。文書を寄贈した孫の小野沢利智さん(86)=前橋市=によると、1998年に自宅の蔵を整理中に見つけた。  豊作は1945年8月4日、近くに住む親族や使用人ら約30人を集めた会議を開き、利智さんの父らが発言を書き取った。米軍機が同1日、一帯に空襲を予告するビラをまき、それを受けた行動だった。豊作の言葉は、会議の出席者を通じて村の住民らに伝わったという。

◆「アメリカにならい、人権平等なる社会を作ること」

 まず「バクダンガオチタラソノママに」と、空襲時は消火ではなく避難を優先するよう呼びかけた。出席者にはコメと麦を分け与えて非常食を準備し、防空壕(ごう)には高齢者と子どもを入れるよう命じた。米軍が来た場合は「ていこうスルナ」と指示し、さらに戦後を見据えて「アメリカにならった一人一人の人権平等なる社会を作ること」と、復興に努めるよう求めた。

祖父・小野沢豊作の思い出を語る利智さん=前橋市で

 翌日の空襲では、前橋市街地に近い元総社村にも焼夷(しょうい)弾が落ち、7歳だった利智さんは豊作の言葉を記した文書を持ち出す役割が与えられ、500メートルほど離れた桑畑まで走った。当時は雨が降ったため、墨がにじんでいる。  東京・芝区(現在の港区)に住んでいた親族が同年3月10日の東京大空襲で被災し、小野沢家に疎開していた。豊作は彼らの話から、焼夷弾の火は水で消えないと知っていた。利智さんは「祖父はこの親族から冷静に情報を収集していたのだろう」と考えている。  国策に沿わない発言は国側に伝わったとみられ、空襲後は敗戦まで自宅周辺を憲兵が監視していたという。利智さんは「祖父は直接的な軍部や政府批判を避けつつ、いかに人びとの命を守るかを考えたように思える」と話した。   ◇   ◇

◆小野沢豊作の文書全文

 昭和二十年八月四日昼前十時緊急會議 豊作発議により開会す 一、ビラ読んだかーアメリカ軍、日本国へ上陸せんとす。大戦闘機で爆弾がオチ家々がモエル 防火用水デハ手のウチドコロナシ三月の東京等の話だとま黒いケムリでニゲルのがヤット トテモ 水をかけるとマタ黒いケムリが出たという。自分の身が大切ニゲルコト 

小野沢豊作の言葉を書き記した文書。米軍が来た場合は「手を上げろ このように万才だ ていこうスルナ」と指示している

二、今日米をツイテイル オノオノ家分 袋にツメ 米二升、麦一升 ヤルカラ それでムズビをつくって 火は明かるいウチに 米を早くタキつけることコレハ夜食 朝に 食えバ飲み水はオケカメにいっぱい入れてオクこと  三、ボウクウゴウに年より子供は入れろよ 若衆は家近所の見張すルコト 皆キタカ  四、各自大事な書物は母屋の外 持ダスコト ワシノトコロはマゴ利に背負いウラバタケに夜をアケサセル 宗と二人デ 五、バクダンガオチタラソノママにー 怪が人 各自で手入ス  六、もしアメリカが来たら手を上げろ このように万才だていこうスルナ  七、元総社は職員一同村関係村会議員廿八人 振興策に全身全霊をもて取り組むことを一同承知した アメリカにならった一人一人の人権平等なる 社会を作ること これから日本国の大改革が 初まると思う ワシも八十一才になった 日本の行く 末を見守りたい もう少しだ 小野澤家のために 皆家々のため互いに助け合っていこう タノム  (※原文のまま)   ◇   ◇

◆「大変な勇気と覚悟」

 戦時期の防空政策に詳しい土田宏成・聖心女子大教授(日本近代史)の話 情報統制が行われている中で、米軍が撒布(さんぷ)した伝単(ビラ)や、東京大空襲体験者の話などの情報を収集・総合し、今後起こる厳しい事態に対して採るべき準備と対応、心構えを的確に示し、共有を図っている。豊作が優れた人物であったことが分かる。  無用な死を避けるためとはいえ、防空法で定められた空襲火災に対する消火義務や、政府の公的な主張を無視して「逃げろ」「抵抗するな」と述べることは大変な勇気と覚悟が要る。  のちの時代のことを知っている私たちからすると、戦後について語った「七」の内容はまるで戦後改革を見通していたかのようにみえる。豊作がアメリカに対するどのような知識や経験を持っていたのか知りたい。敗戦や占領に対する人びとの恐怖や不安を和らげ、苦難を生き抜いていく気持ちになれるように、あえて復興や改革の希望を語ったのかもしれない。どちらにしても、優れたリーダーの言動だ。 

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