戦前、戦時期に旧満州(現在の中国東北部)で発行されていた日本語新聞「満州新聞」に関する資料が見つかった。旧満州を統治した日本の傀儡(かいらい)国家・満州国が発行した記者資格証明書と同新聞の社員名簿で、亡父が同新聞の記者だったという東京都狛江市の田中崇さん(71)が東京新聞に情報を寄せた。田中さんは「旧満州での日本語新聞の実態解明に役立てばいい」と話す。(小松田健一)

満州国政府が発行した田中亀雄さんの記者資格認定証書

 満州国内では多数の日本語新聞が発行され、日本による満州国の実質的な統治を正当化する宣伝機関として重要な役割を果たした。発見された資料は記者の位置づけや新聞社の規模を示すもので、専門家は「いずれも一級の資料だ」と評価する。  田中さんの父、田中亀雄さん(1907~74年)は熊本県出身。旧制中学校を卒業後、福沢諭吉が創業した日刊紙「時事新報」に入社し、取材の補助業務に従事した。時事新報が36年に東京日日新聞(現在の毎日新聞)に吸収され解散した後は旧満州に渡り、首都・新京(現在の長春)で発行されていた満州新聞で38~43年に勤務した。退社後は日本へ帰国し、東宝など映画会社で働いた。

◆「資格証」は満州国ナンバー2が発行

 亀雄さんの「記者資格認定証書」は、満州国政府で皇帝に次ぐナンバー2の国務総理大臣だった張景恵が発行者で、記者の有資格者と認める漢文が記されている。発行日は41年で、満州国の元号で「康徳八年」と記されている。

満州新聞社の社員名簿

 満州新聞は08年創刊の「長春日報」が前身で、他紙との合併や改題を経て38年に発足。44年に満州日報と改題し、日本の敗戦で満州国が崩壊するまで発行を続けた。

◆英字新聞も発行、支社や姉妹紙も

 社員名簿によると、社員数は役員以下約600人。本社では日本語新聞のほかに英字新聞を出し、ハルビンなど旧満州の主要都市にも支社を置いて姉妹紙を発行していた。社員の大半は日本人で、中国人は印刷工場の現業部門に数人程度で、編集部門は1人しか確認できなかった。

「満州新聞」の記者だった田中亀雄さん

 亀雄さんの所属は本社新聞局の「編輯(へんしゅう)課」で、紙面編集を担当していたとみられる。  田中さんは15年ほど前、両親の遺品を整理中に資料を見つけた。「父は新聞記者という職業柄、さまざまな情報に接していたと思うが、記者時代のことをほとんど語らなかった。私は独身なので、自分の死後に資料が埋もれてしまうのは忍びない。研究者の参考になるならば幸いだ」と話した。

 旧満州の日本語新聞 日本が中国大陸への権益拡大を進めたのに合わせて日本人移民が増加し、1905(明治38)年、日露戦争を機に日本が軍政を実施した遼寧省営口市で「満州日報」が初めて創刊された。以後は主要都市で創刊が相次ぎ、李教授の著作「満州における日本人経営新聞の歴史」(凱風社)によると、太平洋戦争で日本が敗戦するまで55紙を数えた。

◆記者の役割を物語る貴重な資料

 旧満州の日本語新聞を研究している李相哲・龍谷大教授の話 満州新聞史の研究では貴重な一級資料と言って良い。当時の満州国に記者資格認定委員会があり、国務総理大臣が認定していたという制度はあまり知られていない。記者が重要な役割を果たしていたことを物語る。満州事変以後、関東軍(旧満州に駐屯した旧日本軍)の主導で、言論機関の統制や管理を目的とする体制が作られ、1941年8月までに関係法令が制定された。記者は満州国に登録が義務付けられ、地位が保障される代わり処罰も可能にした。社員名簿で満州新聞社の組織構成を確認できたのは初めてだ。印刷局を含めて社内で新聞づくりに関わる全部署が確認でき、社内に「指導委員会」が存在していたことや、朝鮮を担当する「満鮮課」を置いたり、ベルリン、バンコクに特派員を派遣していたことなど規模も分かった。 

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