「素晴らしい判断」「核なき世界へ粘り強く」
「核兵器が使われるかもしれないという状況にあっても核が使われなかったのは、核による抑止ではなく、(被爆体験を伝えてきた)私たち被爆者の運動による抑止があったから。それを世界の人たちが理解してくれたと思う」。長崎で1歳の時に被爆した日本被団協の和田征子事務局次長は、ノーベル平和賞受賞の意義をこう強調した。
1945年8月6日午前8時15分に広島、8月9日午前11時2分に長崎——。原子爆弾の爆心地の熱風は数千度にも達したと推定されている。
日本被団協は、広島や長崎で被爆した生存者らによる体験談を通じ、国内外で核廃絶を訴えてきた。ノルウェーにあるノーベル平和賞の選考委員会は、授賞の理由を「核兵器のない世界を実現するために努力し、核兵器が二度と使われてはならないと証言を行ってきた」と評した。
田中照巳代表委員は受賞について「素晴らしい判断をしてくださった。これから若い人に核兵器のことや、私たちがやってきたことを伝えていかないといけない中で、そのことを被団協は押さえて運動していると言っておられる気がする」「核戦争が起きるんじゃないかと思う中で、選考委員長は(核兵器を)本当に無くさなくてはいけないと感じてくれたかのかなと思う」と顔をほころばせて語った。また、これまで活動を続けてきた原動力について「原爆による惨状を目の当たりにして戦争をやるべきではない、原爆は使ってはならないと感じたことだ」と強調した。
広島からオンラインで参加した箕牧智之代表委員は68年に及ぶ運動を振り返り、「私たちの大先輩が(運動を)築き上げた、核なき世界へ諦めることない粘り強い活動。そういうことが受賞につながったのだろう」と、先人たちへの感謝の気持ちを込めた。
ノーベル平和賞受賞を喜ぶ日本被団協の田中照巳代表委員(左)と和田征子事務局次長(右)
日本被団協は1956年結成。原爆の被害者による全国組織で、「原水爆禁止運動の促進」「原水爆犠牲者の国家補償」などを掲げ、世界に向けて核兵器廃絶や核実験禁止を訴え続けてきた。故山口仙二さんが日本被団協の代表委員として1982年の国連特別総会の演説で訴えた「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」というメッセージは、核廃絶へのスローガンにもなっている。
核威嚇は滅亡の道
ただ、被団協の活動にも関わらず核兵器は拡散。ウクライナ侵攻を続けるロシアのプーチン大統領は、ロシアが通常兵器による攻撃を受けた場合、核兵器を使用する可能性があると警告した。核を巡る緊迫度はかつてなく高まっているとされる。
長崎からオンラインで参加した田中重光代表委員は「21世紀には戦争を無くし、核を無くす希望を持っていた。しかし、国際情勢はその逆、核兵器で威嚇をしながら戦争を続けている。米国が原子爆弾を開発した時から、人類は自らの発明した武器で滅亡する道を歩み続けているのではないか。これをやめさせるためには核廃絶しかない。世界の指導者は核の被害をもっと知るべきだ」と語った。
核弾頭の保有国は米英中ロ仏の国連安保理常任理事国とインドとパキスタン、イスラエル、北朝鮮の計9カ国とされる。被団協は核兵器の開発や保有などを包括的に禁じる「核兵器禁止条約」の署名・批准を日本政府に対して求めているのに対し、政府は現段階では現実的ではないと否定的な立場だ。
田中照巳代表委員は、この日の会見前に石破茂首相と電話で対話したことを紹介。今後の面会の際に核廃絶に向けた取り組みを直接訴える考えを示した。また、石破首相がこれまで米国との「核共有」などを検討する必要性に言及してきたことについて、被団協の役員は「ありえない」などと批判の声を上げた。
高齢化や拠点減「厳しいけれど頑張る」
被団協は従来、全国47都道府県に拠点があったが、高齢化などで運動継続が難しくなった地域が増え、現在は36都道府県で活動。今後、活動の縮小を計画している地域もある、浜住治郎事務局次長は「被爆者自身がなかなか動けないのは事実。連携してくれる団体の皆さんと一緒に乗り切ろうという地域もある。核兵器廃絶、国による原爆被害の補償という二つの願いを共有し、厳しいけれども頑張っていく」と強調した。
取材・撮影・文 ニッポンドットコム編集部
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