<安藤優子 らしさをみつけに>

 社会に広がる同調圧力に押されることなく、自分がありのままに生きられる社会をつくっていくには―。テレビのニュース番組でキャスターとして世界の動きを追い続けてきた安藤優子さんが、日本の今を見つめます。月1回程度掲載のコラムを通して、安藤さんが考える「らしさ」を伝えていただきます。    ◇   ◇    

◆まだ見ぬ他者への想像力を養う大切さ

安藤優子(あんどう・ゆうこ) 1958年生まれ。80年からテレビのニュース番組で取材、放送に携わる。要人インタビューをはじめ国内外で豊富な取材経験を持つ。千葉県出身。上智大卒。上智大大学院でグローバル社会学博士号取得。

 名古屋の椙山女学園大学で客員教授として教え始めて2年目となります。講義のテーマは「実践的国際関係論」と「メディア」「コミュニケーション」が三本柱ですが、通底しているのは、自分で考える力をつけて、他者を思いやる想像力を養ってほしいという願いです。  私が教えている国際関係論は、教科書に記されている国際関係の要諦などではなく、これまで報道の現場取材で見たこと、考えたこと、聞き取ったことをベースに「実際にその場(国)で起きたこと」を学生に伝え、ともに考えることです。

◆ベトナム戦争終結から10年後の農村取材

 例えば、泥沼化したベトナム戦争を生き延びたある農村の家族、しかしながら家族の母親はその後の出産時に命を落としてしまいます。米軍と戦った南ベトナム解放民族戦線の秘密の拠点であったその貧しい農村には、電気も水道もありません。住人たちは土壁の家に住み、周囲の水田でコメを育てて暮らしています。彼ら彼女らは、戦争を耐え忍びさえすれば今よりは良い暮らしが訪れると信じ、米軍の空襲や砲撃から必死で身を守ってきました。ところが、戦争が終わっても(私が取材したのは戦争終結から10年後)インフラは整備されず、母親は劣悪な衛生環境下での出産で亡くなったのです。  この時の私の取材映像を実際に学生に見せると、それまでとは明らかに違う空気が教室に流れます。あまりにも粗末な土壁の家にびっくりし、そこで変わらず暮らしていることに衝撃を受けます。

ポーランドの民主化を主導したレフ・ワレサ氏に単独インタビュー。当時は自主管理労組「連帯」の議長を務めていた=1981年5月(安藤優子さん提供)

   「戦争が終わったのになんで電気もこの村にはないのか」「お産で亡くなるなんてかわいそう」などなど。さまざまなリアクションがあります。

◆戦争が誰かを幸せにしたのか

 こうした「ベトナム戦争」イコール「社会主義vs.資本主義」という構図を理解するだけではなく、戦争が誰かを本当に「幸せ」にしたのかを学生に考えてもらいます。為政者の側の論理ではなく、その戦争に意図せず巻き込まれたり、生活を犠牲にせざるを得なかった人々の目線に立った「国際関係」の学びです。  平和があたりまえである日本で日常を送ることができる。ましてや大学に進学して、空調が効いた教室で安全に授業を受けることができる。それが実はどれくらい「あたりまえ」ではないか。そうした自分たちが「あたりまえ」としている状況を俯瞰(ふかん)で見ることによる気づきを学生たちにはしてほしいと願っているのです。同時に、私たちが「あたりまえ」と思っていることが、そうではない場所や人や国がどれほど存在しているかに思いをはせる、つまりまだ見ぬ他者への思いやりという名の想像力を持ってほしいと願っているのです。

◆40年前、戒厳下のポーランドで

 もう40年以上前に私が報道の仕事に初めて足を踏み入れたのは大学生のときでした。ほんのアルバイトの軽い気持ちで、使うテレビ局側はさぞかし大変だったと思います。そんなお気楽大学生が、生まれて初めての衛星生中継のミッションで訪れたのがポーランドでした。

初めての衛星生中継はポーランド・ワルシャワから。マイクを手に街頭インタビューに立つ安藤さん=1981年5月(安藤優子さん提供)

 1980年代初頭のポーランドは、依然ソビエト連邦の強い影響下にある一方で、民主化への人々の欲求も高まりつつあり、それを抑え込むために戒厳令が出されるなど、政治体制が転換する前夜の独特の緊張感がただよっていました。  とはいえ、私が最初に直面したポーランドの現実は、私たちテレビクルーをエスコートしてくれていた通訳兼ガイドの女性が、私が残したコーヒーに添えられている角砂糖をうらやましそうに見ていたことでした。実はその時のポーランドでは必要な生活物資、ミルク、お砂糖、小麦粉、お肉、などなどが配給制(割当量の配給券が配られる)になっていて、一般の市民にとってお砂糖はなかなか手に入りづらいぜいたく品だったのです。

◆角砂糖「使わないなら持って帰っても…」

 彼女はじっと目線を角砂糖に向けたまま、少し小さな声で「使わないなら持って帰っていいか」と聞いてきました。そして、茶色のごわっとしたナプキンにたった一つの角砂糖を丁寧に包んで、バッグにしまいました。彼女はワルシャワの大学で日本語を学んで新聞社に勤める、いわばエリートです。あたりをうかがうようにして、角砂糖の包みをバッグにしまった姿は今でも鮮明に思い出されます。当時日本では(というか私が暮らしていた)東京では喫茶店ブームで、どこの店にもお砂糖がテーブルに用意されていたように記憶していて、それが私にとっての「あたりまえ」でした。  そしてワルシャワの街に出て街頭インタビューをしたときのことです。インタビューの質問は「今何が欲しいですか?」。配給券での不自由な暮らしを強いられている市民たちが、どんなものを今手に入れたいと望んでいるのかを聞くのが目的でした。私はてっきり「粉ミルクが欲しい」「紙おむつが欲しい」「お肉を自由に手に入れたい」」などという物質的な答えが返ってくるものと思い込んでいました。

◆「何が欲しい?」の問いに、誰もが口をそろえた

 ところが、乳母車を押している若いお母さん、腰をかがめて買い物袋をさげて歩いているおじいさん、友だちと談笑している若者たち、老若男女を問わず、答えはただ一つでした。  「平和が欲しい」。  長らく隣国からの侵略に遭い、国が分断される過去を生きてきた人たちは、ミルクでもお砂糖でもなく、ひたすら「平和」を望んでいました。「平和」であることがけっしてあたりまえではない人たちと同じ地に立って、私の「あたりまえ」は粉々になりました。  こうした経験を学生と共有することで、ただ「戦争は良くない」という観念論ではなく、自分自身が何をどう感じるか、それはどうしてなのかを考えた上で、「戦争」や「平和」、そして「あたりまえ」の危うさとありがたさを実感してほしいと思っています。ある意味、彼女たちの「あたりまえ」を一度粉々にしてみる試みです。その上で、自分で考えること、それは「自分」を自分が知ることにつながります。自分はどんな人間なのかを自分が知ることです。それが「自分らしさ」を見つける最初の第一歩だと思うのです。    ◇   ◇      東京新聞は、各界で活躍する方々によるコラムの掲載を始めました。キャスターの安藤優子さん、前兵庫県明石市長の泉房穂さん、元自民党事務局長で選挙・政治アドバイザーの久米晃さん、ピースボート共同代表の畠山澄子さんが月1~2回執筆。今後も新たな筆者が加わる予定です。だれもが生きやすい社会をつくるため、知恵を結集するコラムにご期待ください。 

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。