横田めぐみさんは47年前、中学1年生の時に新潟市の中学校から帰る途中、北朝鮮に拉致されました。

母親の早紀江さんは、当時を振り返り、「あの子は当時13歳でまだ小さく小学校を出たばかりのような状況でした。家が恋しくて、お友達が恋しくてたまらなかったでしょう。『早く助けて』と47年間も言い続けるのは、どれだけ忍耐がいるだろうと思います。突然そんなひどい目にあって国が助けてくれず、『助けて』と言い続けるしかない。私はそのことが本当に悔しくてしょうがないんです」などと話しました。

早紀江さんは取材の際、拉致された年の夏にめぐみさんのためにみずから仕立てた赤い花柄の浴衣を持参してくれました。

めぐみさんが1度だけ袖を通したことがあるというこの浴衣を早紀江さんは自宅で大事に保管しているといいます。

早紀江さんは、「なかなか帯がキュッと締まらなくて『これではほどけてくるよ』と言われながらもう1回やり直しました。着付けのときのおもしろかったこととか、お話ししながら着せたこととか、さまざまなことが思い浮かびます。ふだん着ていたものはすぐそのときの情景が浮かぶほど懐かしいものですからみんな残してあります。残っているのは13歳までのものだけですからね。あとはありませんから」と話しました。

長年、夫の滋さんとともに救出活動の先頭に立ってきた早紀江さん。

しかし、滋さんは4年前、87歳で亡くなりました。

そして88歳になった早紀江さんは去年2月、突然自宅で倒れました。

死を意識したという早紀江さんはそのとき「あと2年だけは生かしてください」と口にしたと言います。

早紀江さんは「もうあと1年、2年ぐらいは頑張れるかもしれませんからという思いでした。そのときは意識がなくなる感じがして、死ぬってこういうことだと本当に初めて思いました。『死んでいられないわ』という思いがこみ上げてきて、『めぐみちゃんに帰ってもらわなきゃ』と。それで思わず『もうあと2年、神様助けてください』と言いました」と振り返りました。

しかしその後も拉致問題は進展が見られず、早紀江さんが口にした“あと2年”まで半年を切りました。

早紀江さんは「そこまでは生かしてくださいと自分の願いを言ったので、それまでには解決してほしいと思います。早くしないと間に合いません。娘に会わせてもらいたいです」と述べ、政府に対し一刻も早く被害者を取り返してほしいと強く求めました。

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