大好きな父の背中に…

廣中正樹さん(84)は5歳のとき、原爆の投下で父親の一(はじめ)さんを亡くし、自らも爆心地から3.5キロ離れたいまの広島市西区で被爆しました。

一さんは通勤途中の電車で被爆したあと背中に多くのガラスが突き刺さったまま自宅に戻ってきました。

廣中さん
「私は右手で1センチくらい出ているガラスを引き抜こうとしました。しかし、筋肉に深く突き刺さり、すべって抜けませんでした」

遺品の枕を見ると、廣中さんはいまも、一さんの背中からガラスを抜いてあげられなかったつらい記憶を思い出します。

「父親の血痕がいっぱいついとったんじゃから。『とうちゃん、なんぼ力入れても、ぼくにはとれんよ』と。『とうちゃん、もう僕にはとれんよ』いったんですよ」

翌日、一さんは息を引き取りました。

父親の一さん

「体力、気力の限界」

一さんの遺品は、いま、原爆資料館に展示されていて、廣中さんは、原爆の悲惨さを感じてほしいと、被爆した体験を原爆資料館などで語り続けています。

「二度と戦争はしてはいけないよ原子爆弾使ってはいけないよと」
「よく見てくれました。サンキューサンキュー」

精力的に体験を伝えてきた廣中さんですが、自ら語ることができるのは、あと数年だと感じています。

「私がもう自分の体力、気力いうのが、限界が見えてくるから。誰かが引き継いでくれるいうことを期待しとるんじゃけど」

いま、力を入れているのが、自身の体験を語り継いでくれる伝承者の育成です。

そのひとり、東京に住む河上聡さんは、伝承者を目指す中で、廣中さんの証言に強く心を動かされたといいます。

河上さん
「廣中さん、ステージの上でことば詰まらせて泣いてたんですね。たぶん個人の思いとしてすごく身がもがれるというか…その人の思いをちゃんと次に残したいなって思って」

河上さんはこの2年、月に1回程度の研修を受け、廣中さんの話をもとに自らが書いた原稿を初めて廣中さんの前で披露しました。

「これから、廣中正樹さんの被爆体験、父と子の別れについてお話させてもらいます。お母さんが『お父さんが亡くなったよ』といい、正樹君はもっと大きな声で泣いてしまいました。廣中さんは、被爆当時5歳と10か月でしたが、あのときの悲惨な状況が頭の中に焼き付いて、忘れることができないとおっしゃっていました」

廣中さん
「よかったよかった。私の被爆体験をそのまま拾ってもらっとるから。忠実に拾ってもらっとる感じがするんだよな」

廣中さんはさらに聞き手を引きつけられるよう、原稿を読んだあとに相手を見ることなどをアドバイスしました。

河上さんは今月5日に「伝承者」になるための広島市の検定に合格したという連絡を受けたということです。

廣中さんの話を伝えようと研修を受ける人は、10人を超えました。廣中さんは自分が語り継げなくなったあとも自身の体験を伝え続けてほしいと願っています。

廣中さん
「もう被爆者がいなくなるんだから。私の体験もそうなんだけど、広島の出来事を世界の人が少しでも知っていただくように、そういうことをいまの伝承者にお願いしたい。広島のような過ちをしないようにするためにはどうすりゃいいかということをかんがえてもらう。そういうように私は思っとる」

「いつの間にか年月が…」

広島に原爆が投下されて、8月6日で79年。

広島市の平和公園で開かれた平和記念式典では、廣中さんが被爆者の代表のひとりとして原爆慰霊碑に献花しました。

廣中さんは献花のあと、「この地を踏むだけで、79年前の当時の広島のできごと、そして父親に起きたことを思い出します。79年もたって、いつの間にか年月がたってしまったという感じがします」と振り返りました。

廣中さんは「高齢化で本当に話ができなくなっていますが、伝承者の制度に参加するようになり思いをたくすことができて、少しは心が休まる気がしています。多くの人が広島や長崎に来て勉強して、私の思いを含めて発信してもらい、みんなで平和な社会を作ってほしいです」と話していました。

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