太平洋戦争のミッドウェー海戦(1942年)で沈没した旧日本海軍の空母「飛龍(ひりゅう)」と運命を共にする司令官の姿が描かれ、東京国立近代美術館(千代田区)が所蔵する油彩画「提督の最後」と類似した作品が見つかった。ともに洋画家の北蓮蔵(きた・れんぞう)の作だが、場面や色調が異なる。なぜ、二つの作品が生まれたのか。

業者市で発見された作品。白い軍服姿の山口少将らが描かれている

 北蓮蔵 1876~1949年。岐阜県出身の洋画家で明治~昭和時代に活躍。同郷の洋画家山本芳翠(ほうすい)に師事し、当時の東京美術学校(現東京芸大)を卒業。帝国劇場の背景主任時代は背景画に洋画を導入。国会議事堂の歴代議長肖像画も手がけた。

◆ギャラリー館長「手に入れた時は椅子に倒れ込んだ」

 「提督の最後」に描かれているのは、米軍機の爆撃を受けた飛行甲板に幕僚らが集まり、夜空を背景に水杯を交わす場面だ。提督とは、中央に描かれた黒っぽい軍服姿の山口多聞(たもん)少将(死後、中将に昇進)。別の艦に移って逃げるよう部下に懇願されたが、受け入れずに飛龍とともに沈んだ。  今回見つかった作品も、煙の上がる飛行甲板と山口少将が描かれ、そばに軍艦旗を手にした人物がいるのは共通している。だが、少将の軍服は白色で、演壇代わりの木箱の上で、決別のあいさつをしている。  発見作は「シェイクスピア・ギャラリー」(千代田区)の清水篤館長が今春、業者市でたまたま見つけ、落札した。「構図は異なるがサインも記された本物。手に入れた時は心臓がばくばくして椅子に倒れ込んだ」。だが、なぜこれほど違うのか。

◆「提督の最後」と同年に、キャンバスではなく紙に…

発見作について語るシェイクスピア・ギャラリーの清水篤館長=千代田区で

 「山口多聞中将、加来止男(かく・とめお)少将(注・飛龍艦長)の壮烈なる奮戦と、陛下の御船と運命をともにした、鬼神も哭(な)くその最期を申し述べ、敵撃滅の中心となって、いかに戦っているかをしのびたいと存じます」  山口少将らの死がNHKラジオで初めて報じられたのは海戦翌年の43年4月。戦争画家で従軍経験もある北はこの後、海軍の依頼を受け、飛龍の生還者らに聞き取りをしながら作品制作に取りかかったとされる。  東京国立近代美術館の大谷省吾副館長によると、「提督の最後」は43年末に発表された。一方、大谷さんが今回の発見作を鑑定すると、画面左下に昭和18年(43年)と制作年が記されていた。「発見作がレプリカだとすると、通常は発表後に描き始めるので43年時点では存在しないはず。それに発見作は紙に描かれている。レプリカならキャンバスに描くはず」。丁寧に描き込まれ、デッサンのレベルではないといい、大谷さんは「発見作のような絵画は珍しい」と語る。

◆「おそらく試作。努力の跡が見える貴重な一作」

山口多聞海軍少将(撮影時期不明)

 「発見作の描写は史実と異なる。おそらく試作だろう」。そう指摘するのは広島県の呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」の戸高一成館長だ。ミッドウェー海戦のあった6月は白い夏服を着る時期だが、当時の現地は気温が低く、また海上での作戦では艦長の判断で紺色の冬服を着ることも少なくなかったという。  戦争画は戦意高揚の目的がある一方、記録の役割から正確さを求められる。戸高さんは「生還者に途中段階の絵を何度も見せながら修正していったのだろう」とみる。その上で「海戦で惨敗した実態を海軍が北に伝えたかは疑問だが、北はできるだけ正しく伝えようと修正を重ねた。その努力の跡が見える貴重な一作」と発見作を評価した。    ◇   ◇      発見作はシェイクスピア・ギャラリー(千代田区神田駿河台1の5の6 地下1階)で3日まで展示。15日~9月7日にも特別展示される。無料だが来場予約が必要。問い合わせは清水さん=090(8580)3160=へ。    ◇   ◇      東京国立近代美術館(千代田区)が所蔵する油彩画「提督の最後」は、同館のホームページからご覧ください。  ◆文と写真・小沢慧一  ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 

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