親が交通事故で亡くなったり、重い障害が残ったりした子どもたちの16%がいわゆる「ヤングケアラー」の可能性があることが、交通遺児育英会(東京)の初の調査で分かった。きっかけは、自身がヤングケアラーだったという女性の提案だった。ヤングケアラーはどんな日々を送り、どんな思いを抱えていたのか。本人を取材した。(三宅千智)

◆介助や家事で疲れ切り、授業中に寝てしまうことも

 「自分のことを考えてる余裕なんてなかった」。交通遺児育英会の元奨学生で、小学生の時から母親(60)の介護や家事を担った元ヤングケアラーの沖村フォンデビラ有希子さん(34)=横浜市鶴見区=は当時をこう振り返る。「誰もが突然ケアラーになる可能性がある。家族を介護資源の主体としない仕組みを考えなければ成り立たない」と力を込める。

母親(右)と写真に写る沖村フォンデビラ有希子さん=本人提供

 シングルマザーの母親と幼いころから2人暮らし。2001年6月、母親が自転車で通勤途中に信号無視の車にはねられ、頸椎を損傷。両手足に障害が残り、車いすの生活になった。  頼れる親戚はおらず、当時11歳だった沖村さんが日々の家事のほか、母親の入浴やトイレ、病院などへの移動に必要な介助を担った。ヘルパーが来るのは平日朝から夕方。「それ以外はご家族がやってください、という状態だった」。体力の限界が来て授業中に寝てしまうことも多くなった。  そんな状況に違和感を感じていた。「どうして私は尊重されないんだろう」。中学では弁当が必要だったが、自分で作る余裕もなく、コンビニのスティックパン1、2本で済ませていた。親が手作りした弁当の彩りに文句を言う同級生もいる中、周りとの環境の違いを感じ、卑屈な気持ちを抱えるようになった。周囲から浮いているようにも感じ、いつしか教室で誰ともしゃべらなくなった。

◆留学先のホストマザーがかけてくれた言葉に救われた

 転機になったのは高2の夏。交通遺児育英会の海外語学研修で、1カ月間、カナダに留学した。ホストファミリーたちは「あなたはどう思う?」と沖村さんの考えを常に尊重してくれた。「それまでは、母の良き介護者であることを社会に求められていて、自分の考えを押し殺していた。私個人の考えや発言を求められたのは初めてだった」。

高校2年時、留学先のカナダで、クラスメイトと写真に写る沖村フォンデビラ有希子さん(前列左から2人目)=本人提供

 沖村さんの家庭の事情を知っていたホストマザーはこんな言葉をかけてくれた。「あなたは他の子よりもいろんなことを早く経験している。他の子と自分は違うと感じることがあると思うけど、それは特別で素晴らしいことなのよ」。自信につながり、前向きに生きられるようになった。  大学では2級建築士の資格を取得。しかしインターン先の建築事務所で、母親の介護を理由に休んだことで「君にこの業界は向いていないんじゃないか」と言われ、諦めざるを得なかった。フリーターを経て、世帯を支えるために自営の必要があると、24歳で福祉サービス会社を起業した。現在はアルゼンチン出身の夫(38)と、昨年生まれた長女と暮らす。

◆「自身がケアラーだと気づいていない人もいるはず」

 「今、こうして生きているのが奇跡だと思う」と語る沖村さん。「進学し、社会に出ることができたのは交通遺児育英会の奨学金のおかげ」と感謝する。育英会のヤングケアラー実態調査は、昨年5月、沖村さんが同会を訪れた際に提案したことで実現した。  調査結果については「自身がケアラーであると気付いていない人もいるはずで、実際はもっと多いのではないか」とみる。沖村さんは育英会のほか、日本学生支援機構の奨学金も借りていたため、月5万円の返済が45歳まで続く。「返済がキャリアや職業選択に影響が出てくる場合もある。ヤングケアラーのことを広く知ってもらい、ケアラーへの給付や減免制度などの支援につながれば」と願う。 

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