戦後の旧ソ連によるシベリア抑留の犠牲者のうち約4万6300人の名簿を1人で作り上げた故村山常雄さんが88歳で亡くなり、11日で10年となった。節目に功績へ思いを寄せようと、名簿の基礎となった資料など約250点を集めた回顧展が、東京都千代田区の九段生涯学習館で開かれている。17日まで。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのパレスチナ自治区ガザへの侵攻など、各地で戦火が絶えない今、歴史と教訓を振り返る場となっている。(山下葉月)

 シベリア抑留 太平洋戦争終結後、旧ソ連軍は旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島で日本兵や民間人を拘束。シベリア地域などの収容所に送り、鉄道建設や森林伐採などの強制労働を課した。抑留先は中央アジアやウクライナ、モンゴルにも及んだ。厚生労働省によると、抑留者約57万5000人のうち約5万5000人が飢えや寒さなどで死亡したとされる。1956年の日ソ国交回復まで帰国事業が続き、抑留期間が10年以上の人もいた。

◆独力でシベリア抑留で命を落とした人たちの氏名を特定

村山常雄さんがシベリア抑留死亡者名簿作成のために使用した資料や本が並ぶ会場=10日、東京都千代田区で

 村山さんは1926年、新潟県糸魚川(いといがわ)市生まれ。関東軍の兵士として旧満州(現中国東北部)で終戦を迎え、旧ソ連ハバロフスクに近いムーリー地区の収容所などに約4年間、抑留された。帰国後は県内で中学校の教師を務めた。  1996年、70歳の誕生日を機にシベリア抑留者の調査を開始。旧ソ連や継承国ロシアが日本政府に引き渡した犠牲者名簿などを基に、2005年に自身のホームページで名簿を公開した。  ロシアなどから提供された名簿は片仮名で、日本人とは思えない名前も見られ、不正確な部分も多かった。村山さんは1人1人の名前を、役場などに残る名簿と対照させるなど、漢字表記の特定を進めた。

◆「捕虜の人権や人質の問題は現代にも通じる」

 完成した名簿は漢字氏名のほか生年、死亡年月日などを記載。製本すると1000ページを超えた。展示では、名簿の完成に至るまでの手書きの原稿やシベリア各地の地図、遺族や抑留者グループから寄せられた資料などを集めた。  主催した市民団体「千代田・人権ネットワーク」(東京)の有光健代表は、ウクライナやガザへの侵攻に触れ「捕虜の人権や人質の問題は現代にも通じる。悲惨なことがなぜ起きたのか、一歩踏み込んで考えてほしい」と力を込める。  展示は午前11時〜午後7時。最終日のみ午後5時まで。入場無料。     ◇

◆抑留された呉正男さん「仕事は土掘りが最も多かった」


抑留の体験を話す呉正男さん=10日、東京都千代田区で


 太平洋戦争当時は日本統治下にあった台湾出身で、旧ソ連に抑留された、横浜市中区の呉正男(ご・まさお)さん(96)が10日、会場を訪れ、自身の抑留体験を語った。  1944年、16歳で旧日本陸軍に志願。爆撃機の通信士になり、当時は日本領だった朝鮮半島の飛行場で終戦を迎えた。ソ連軍に捕まり、カザフスタンの収容所で約2年間過ごした。  辺りは乾いた大地。「仕事は土掘りが最も多かった。それがダムのためだと知ったのは、つい最近だった」。働かずに済むのはマイナス25度より冷えた時だけ。「ここで死んだら、誰が親に知らせるのだろう」。不安を感じながら、日々を耐えた。空腹にも苦しんだ。1947年7月に京都・舞鶴に帰還。約60キロあった体重は、抑留生活で41キロに減っていた。

シベリア抑留死亡者名簿を作成した村山常雄さんに関する展示を見る呉正男さん(右)

 会場に並ぶさまざまな資料や、同じカザフスタンでの収容生活の絵を時折指さしながら、当時に思いをはせた。「戦争では市民が死ぬ。どこもそう。めちゃくちゃになるから、当然反対だ」と話した。     ◇  共催した市民団体「シベリア抑留者支援・記録センター」は11日、回顧展の会場で、2年に1度の「第5回村山常雄記念シベリア抑留研究奨励賞」を、収容者と家族が交わした「俘虜(ふりょ)郵便」の研究を続ける平和祈念展示資料館(新宿区)の学芸員山口隆行さん(38)と、「捕虜体験記」(全8巻)編集代表の高橋大造氏の研究を続ける堀川優奈さん(31)の2人に贈った。 

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