田中さん“やることはやった あとはみなさんの番”

日本被団協の田中熙巳さんと代表委員は、ノーベル平和賞の授賞式から一夜明けた現地時間の11日午前8時すぎ、宿泊先のホテルから出た際に取材に応じました。

田中さんは「緊張もとれてきのうは少しお酒も飲んだしゆっくり眠れました。自分がやることはやったのであとはみなさんの番です」と話していました。

地元メディアも受賞や演説 大きく報じる

授賞式から一夜明け、現地の新聞では日本被団協の受賞が大きく報じられています。

ノルウェーの首都オスロ中心部にある地下鉄の駅では、早朝から授賞式の様子を伝える新聞が売られていました。

このうちノルウェーの全国紙は、田中熙巳代表委員の「たとえ戦争といえども、こんな殺し方、傷つけ方をしてはいけない」という演説を見出しにとり、田中さんのことばに涙を流した人がいたことなどを報じていました。

別の新聞では、広島で被爆した箕牧智之代表委員の特集記事が掲載され、被爆者たちが、原爆の記憶を次の世代に継承できるか不安を抱えているなどと伝えていました。

ノルウェーの市民からは、今回の受賞を歓迎する声が相次ぎました。48歳の女性は「世界が被爆者に注目することはすばらしいと思う。世界の多くの国で起きていることを見ると、核兵器が再び使われたらどうなってしまうのかと不安になる」と話していました。

60歳の女性は「授賞式で登壇した代表委員の方々はすばらしく、勇敢な人たちだと思う。これからも闘い、核兵器廃絶を世界に発信し続けてほしい」と話していました。

また58歳の男性は、日本被団協がノーベル平和賞を受賞した意義について「ウクライナや中東の情勢が混迷を極めるいまだからこそ、日本被団協が行ってきたことは重要だ」と話していました。

田中熙巳さん演説全文

代表委員3人 議会で会見“若い人たちに期待”

田中熙巳さん、田中重光さん、箕牧智之さんの代表委員3人は、現地時間11日午前、ノルウェー議会を訪れました。

3人は、ガラカーニ議長から、議会の歴史や議場について説明を受けたあと、田中熙巳さんが議長とともに会見を行いました。

田中さんは「ノルウェーの国を挙げて受賞を歓迎して下さり、心から感動しています。核兵器を使わせない、なくさなければいけない、これからの世界をつくりあげていく役割は若い人たちにあると思うので、ノルウェーと日本の若者が手をつなぐことも大事だと思う。今後とも一緒に頑張っていきましょう」と述べました。

3人はこのあとノルウェーのストーレ首相と面会する予定です。日本被団協の代表団は12日まで現地に滞在し、海外メディアの取材を受けたり地元の学校で被爆体験を証言したりして核兵器の非人道性や被爆の実相を伝えることにしています。

授賞式の前にはハラルド国王にも謁見

代表委員3人はノーベル平和賞の授賞式が始まる1時間前、ノルウェー王宮を訪れ、ハラルド国王にも謁見しました。

3人は、ハラルド国王、ソニア王妃、ホーコン皇太子、マリット皇太子妃と順番に握手を交わし、それぞれ「お招きいただきありがとうございます」などと話していました。

また、ソニア王妃は田中熙巳さんと握手を交わす際に「おいでくださいまして、お会いできて本当にうれしいです。おめでとうございます」と声をかけていました。

そして、3人を中心にして記念写真を撮影しました。

授賞式をテレビで見守った被爆者たちは、活動が認められた喜びを語ったり改めて体験を語り継ぐことの大切さを訴えたりしました。

原爆資料館 元館長“行動起こさないと受賞生かされず”

原爆資料館の元館長で広島県被団協副理事長の原田浩さん(85)は6歳のときに被爆しました。

1993年から4年間、原爆資料館の館長を務めました。

授賞式を自宅のテレビで見守った原田さんは「極めて意義があるときに受賞したと思うが、世界各国の人が行動を起こしていくことにつなげていかなかったら、今回の成果は生かされていないと言わざるを得ず、被爆者も行政も努力を重ねる必要がある」と指摘しました。

その上で「広島だけでおよそ4万人の被爆者がいると思うが、証言者として発信しているのは100人余りかと思う。多くの被爆者は悲惨な体験を内にしまって話したくないということだが、最後の力を振り絞って多くの人に伝える努力をしてほしい」と述べました。

さらに「今回の受賞で、1人でも多くの方々が被爆体験を自分事として受け止めてくれることが大事だ。日本政府についても、核兵器禁止条約に少なくともオブザーバー参加し、被爆国としてのメッセージを伝えることが核兵器を持つ国と持たない国の橋渡しになるのでそこから逃げてはいけない」と述べ、被爆者と市民、そして政府それぞれに果たすべき役割があると強調しました。

原爆で家族6人を失った男性 “語り続ける決意 新たに”

原爆で家族6人を失った広島市の内藤愼吾さん(85)は、6歳のときに爆心地から1.7キロ離れた自宅で被爆しました。

父親ときょうだい4人を次々と亡くし、8年後には母親も亡くなりました。

つらい体験を長年、人に話すことはなく、胸にしまっていましたが、原爆の恐ろしさを伝えたいと、2022年から修学旅行生などに体験を語り始めました。

授賞式を自宅のテレビで見守った内藤さんは「被爆者が核兵器廃絶の運動をしてきたことが世界に認められて感激した」と話していました。

田中代表委員が受賞スピーチの中で原爆で5人の親族を失った体験を語ったことについて「わが身に置き換えて考えて、田中さんも同じような苦労をしたのだとしみじみと感じた。飾り気のない、いいスピーチだった」と話していました。

その上で、内藤さんは「いま自分も体験を語り始めて、聞いてくれる子どもたちのまっすぐな目を見ると、もっと早く語るべきだったと思っている。老い先は短いが、自分たちの経験を踏まえて核兵器をなくさなきゃいけないということを粘り強く伝えていきたい」と話し、核兵器廃絶の実現に向けてこれからも体験を語り続ける決意を新たにしていました。

長崎の被爆者 “願いがやっと世界に認められた”

長崎市の三瀬清一朗さん(89)はことしの長崎原爆の日の平和祈念式典で被爆者を代表して「平和への誓い」を述べ、核兵器廃絶を訴えました。

10歳のときに爆心地から3.6キロ離れた自宅で被爆し、現在、語り部として修学旅行生などに自身の体験を伝える活動を続けています。

三瀬さんは授賞式の様子を自宅で見守ったということで「始めから終わりまで食い入るように見た。僕たちの願いがやっと世界に認められたということで感無量だった。拍手を送った」と話しました。

そのうえで「核兵器で平和を築くことはできないという田中代表のメッセージは、日頃、私たちが語り部として子どもたちに話しているもので大変心強いことばだった。今のうちに被爆体験を語ることで、平和を思う気持ちを『種』として1粒ずつ子どもたちに預けて育ててもらい、花を咲かせてもらうことが私の夢でもあるし、被爆者全員の希望だ」と話していました。

42年前の横断幕発見のグループ “道を切り開こうとした”

長崎総合科学大学の木永勝也 客員研究員などのグループは、去年、日本被団協の長崎県内にある団体の倉庫で被爆者運動の資料などを整理していたときに平和への思いなどを寄せ書きした横断幕を発見しました。

被団協が、1982年にニューヨークで開かれた国連の軍縮特別総会に参加した際に現地で寄せ書きをしたものです。

このときの総会は、被爆者として初めて国連の演壇に立った代表委員の山口仙二さんが「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」などと訴えたことでも知られています。

横断幕は大きさが縦1メートルあまり、横およそ2メートルで「平和こそ最大の幸福」とか「原爆許すまじ」など、国連に派遣された被爆者たちの平和や核兵器廃絶への思いが書き込まれています。

木永客員研究員は「この横断幕を見ると、被爆者がいかに核兵器廃絶を国際社会に訴えようとしていたかを感じることができる。当時は、なんとかして核兵器廃絶への道を切り開こうという思いで活動していたと思うが、こうした活動に対してノーベル平和賞が授与されたと思う」と話していました。

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