10年前の安倍氏㊨のバングラ訪問が、両国関係を決定的に重要にする転機となった。写真左はハシナ首相(2014年9月、ダッカ)

失敗が許されない首脳外交は、時に中身より体裁が重視される。先ごろのバングラデシュと中国はまさにその典型だったか。

7月10日、5年ぶりに北京を訪れたハシナ首相が、習近平(シー・ジンピン)国家主席と会談した。両国のパートナーシップを従来の「戦略協力」から「包括的戦略協力」に格上げし、インフラ開発など21の協力文書に署名した。

躍る麗句とは裏腹に、経済界など200人近い訪問団を率いたハシナ氏は、予定を早めて帰国した。一部の地元メディアはこれを中国への不満の表れと受け止めた。バングラのトウヒット・ホセイン元外務次官は「今回の訪中で特筆すべき成果は何もなかった」と米誌ディプロマットに語った。

理由のひとつは、期待した中国からの金融支援の取り付けが不調に終わったことにある。バングラは通貨タカの下落で外貨準備が目減りし、対策として取り組む輸入抑制が物価上昇に拍車をかける。通貨安と物価高の二重苦が経済の重荷となるのは「グローバルサウス」と呼ぶ新興国・途上国に共通する図式だ。

バングラは2023年初めに国際通貨基金(IMF)から47億ドル(約7400億円)の融資を受けることが決まり、段階的に実行されている。ところが通貨安が止まらない。直近の外貨準備は200億ドルを切り、危険水域とされる輸入の3カ月分に近づく。これを補おうとハシナ氏は中国から50億ドルの追加融資の獲得を狙ったが、金利などの条件が折り合わず、確約を得られたのはわずか1億ドル強だった。

ハシナ首相(写真右)と習近平国家主席(同左)の会談は成果が乏しかった(7月10日、北京)=ロイター

なぜ習氏はハシナ氏を手ぶらで帰したのか。不動産不況など中国自身の経済減速はもちろん影響しただろうが、それ以上の伏線がハシナ氏の訪中直前にあった。

ハシナ氏は6月9日のインドのモディ首相の3期目の就任式に招かれた後、2週間おかずに再びニューデリーを訪れ、首脳会談に臨んだ。その際、インド北東部からバングラ北部へ流れるティスタ川の治水事業でインド側と協議に入ることで合意した。

ティスタ川の浚渫(しゅんせつ)や水力発電開発は、先に中国が10億ドル規模の支援を申し入れていた。上流のヒマラヤ山中の国境問題で中国と激しく対立するインドが同事業に首を突っ込めば、中国は締め出される。新たな資金支援の留保はその意趣返しの気配が漂う。

「中国のバングラへの関与戦略があまり見えなかった。バングラはインドにいっそう傾き、我々の存在感も相対的に増すのではないか」。今回の首脳会談を受けた、日本の外務省高官の見立てだ。

中国やインドに対して是々非々で振る舞うバングラの姿勢も注目される。日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所の村山真弓理事は「歴代政権は印中いずれかを選ばざるを得なかった。いまは天びんにかけ、選べる立場だ」と語る。

そんな状況を生み出したのは、中印の綱引きに割って入った日本の存在である。

きっかけは14年9月、日本の首相として14年ぶりにバングラを訪れた当時の安倍晋三首相が、経済開発を後押しする「ベンガル湾産業成長地帯(BIG-B)構想」を表明し、「今後4〜5年で6千億円の資金協力」を約束したことだ。

大盤振る舞いには政治的な思惑があった。バングラは当時、翌15年の国連安全保障理事会の非常任理事国に立候補の意向を示し、日本と競合していた。日本は過去に12回選ばれているが、唯一投票で敗れた相手が1978年のバングラ。巨額支援と引き換えに、バングラは立候補を取り下げ、日本は対抗馬不在で当選を果たした。

カネで国際的役割を買った、ともいえるのだが、偶然とはいえそのタイミングが絶妙だった。中国が13年に広域経済圏構想「一帯一路」を打ち出し、南アジアと東南アジアの結節点に位置するバングラへ攻勢をかけようとしていた矢先だったからだ。

中国が主導して設立したアジアインフラ投資銀行(AIIB)が16年1月に開業すると、バングラは直後に加盟した。AIIBが同6月に公表した最初の単独融資案件はバングラの送電線事業だった。同10月には習氏が中国主席として30年ぶりにバングラを訪れて「戦略協力パートナーシップ」を結び、240億ドルの巨額支援を約束する。17年にはバングラを通るルートを一帯一路の重点事業である「6大経済回廊」のひとつに位置づけた。

ただしバングラの対中関係は歴史的に複雑だ。1971年にパキスタンから戦争を経て独立する際、中国はパキスタン側についた。インドの後押しで独立を果たしたものの、72年の国連加盟申請は常任理事国の中国の拒否権に阻まれ、実現は74年にずれ込んだ。「独立の父」ムジブル・ラーマン初代大統領が75年にクーデターで暗殺されると、中国は軍事政権を支援した。

娘のハシナ首相によれば、「独立の父」ムジブル・ラーマン初代大統領は「日本を見習うべきだ」と常々語っていたという(1972年1月、ダッカ)=AP

90年に民主化して以降、軍政の流れをくむバングラデシュ民族主義党(BNP)と、ラーマンの長女ハシナ氏が率いるアワミ連盟(AL)が交互に政権を担う時期が20年続いた。独立時の経緯から前者は「親中反印」、後者は「親印反中」に振れがちだった。

BNP政権期の2002年に中国と防衛協力協定を結び、戦闘機から艦船、重火器まで中国製兵器の調達が急増した。加えて中国経済の台頭がバングラとの関係にも影響を与えた。ダッカ大のライルファー・ヤスミン教授は「06年に中国との貿易額がインドを上回ってから、バングラの対中関係は質的に変化した」と言う。09年に首相に返り咲き、いまに至る長期政権を担う親印のハシナ氏も、印中間のバランスを意識する「全方位外交」を標榜せざるを得なくなった。

中印の経済力の差と、一帯一路の勢いをみれば、バングラは一気に中国へ傾いても不思議はなかった。そこに登場したのが「古くて新しい親友」の日本だった。

日本はバングラ独立直後の1972年に国交を樹立し、国連加盟も真っ先に支持した。緑地に赤丸のバングラ国旗は、日本の日の丸を参考にしたといわれる。ラーマン初代大統領は73年に来日している。2022年に国交50周年を記念して在バングラデシュ日本大使館がホームページに公開した当時の映像は、羽田空港に着いた搭乗機のタラップ下で出迎える田中角栄首相や、各地で歓迎を受けるラーマンの姿を伝える。

23年4月に筆者がダッカでインタビューした際、ハシナ氏は「父は『日本が農業経済から工業化した過程を我々も見習うべきだ』と繰り返し話していた」と明かした。

そんな親日の土壌に、14年の安倍氏訪問が新たな種をまいた。ある援助関係者は「あのままならバングラは中国に頼っていたかもしれない。6千億円とBIG-Bで一気にスイッチが入り、結果的に最高のタイミングで支援を始められた」と振り返る。

日本は開発計画を着実に実行している(2022年末に開業したバングラ初の都市鉄道ダッカメトロの車内)

日中のその後の援助姿勢の差は明白だ。

中国は240億ドルの融資を約束したものの、現在までの実行額は60億ドル程度にとどまるとみられる。対して「4〜5年で6千億円」のはずだった日本は、23年まで10年間の円借款供与額が2兆2300億円に達し、当初の約束を大幅に超過した。円安が進んだいまのレートで換算しても140億ドルに相当する。

「空手形」が目立つ中国と異なり、日本はバングラ初の都市鉄道や国際水準の工業団地、日本企業が運営まで担うダッカの国際空港の新ターミナルなど、BIG-Bで描いた開発計画を着実に実行している。

最も明暗を分けたのはベンガル湾での深海港開発だろう。中国は14年に南東部のソナディアで大型船が接岸できる港の建設を提案したものの、合意できなかった。国有銀行による借款の金利が高かったこと、中国が港湾の運営権まで求めたことに加え、インドや米国の猛反対が影響した。代わってバングラが採用したのが、日本が提案し、ソナディアの北側で建設を進めるマタバリ港だ。

中国はパキスタンのグワダル港、スリランカのハンバントタ港、ミャンマーのチャオピュー港と、インド洋で「真珠の首飾り」とも称される港湾群の開発を進めてきた。将来の軍事利用が懸念される海洋戦略に、ソナディア港も組み込むはずだった。日本主導のマタバリ港はその野望にくさびを打ち込んだ格好だ。

「自由で開かれたインド太平洋」を掲げる日本にとり、中国の覇権主義的な動きをどう抑止していくかは大きな課題だ。米国やオーストラリア、フィリピンなど多国間協調の重要性は増すものの、国益の観点からは、独自の戦略も欠かせない。

「物量作戦ではもはや中国にかなわない。かゆいところに手が届く、日本らしい援助で対抗しないと」。そんな声が最近、多くの日本関係者から漏れるが、バングラは「らしさ」と物量の両面がかみ合った珍しい事例といえる。

アジアの十字路ともいえるバングラで、中国を凌(しの)ぐ存在感を発揮する日本。ハシナ長期政権の強権化や、半世紀前の独立戦争に従事した兵士家族の公務員採用での優遇を巡って足元でエスカレートする抗議デモなど、政治情勢の不透明さはある。それでもインド太平洋構想やグローバルサウスとの連携を推進するうえで、バングラにとっての日本だけでなく、日本にとってもバングラとの関係が死活的に重要な意味を持つのは疑いがない。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。上級論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。