ひいおじいさんに抱っこされ

このセピア色の写真は、栄一の膝に抱かれている雅英氏だ。同氏は1925年、横浜正金銀行(東京銀行の前身、現三菱UFJ銀行)に勤めていた父、敬三(栄一の孫、後に日銀総裁、蔵相を歴任)の長男として、英国で生まれた。


渋沢栄一(左)に抱っこされる雅英氏(渋沢史料館提供)

「撮ったのは10月頃だと思います。私は2月生まれでございましてね、だから0歳でしょう。10月にイギリスから帰国して、栄一が私を抱きたがって一緒に撮ろうということになったんだと思います」

1万円札の肖像になった人物は、過去に聖徳太子と福沢諭吉しかいない。渋沢栄一は3人目になる。

「感想ですか。別にないです。よく選ばれたもんだとは思ったけれど。大変光栄には感じています」


長寿で知られる栄一の年齢を超え、99歳となった雅英氏

栄一は、雅英氏が6歳の時に91歳で亡くなった。多忙な栄一には家族団らんの時間はあまりなかったようだ。

「まだ4つとか5つですから、偉い人なんだなという程度の意識しかなかったと思います。(栄一が亡くなった時に)お葬式を盛大にやっているなという記憶はあります」

尊王攘夷からの大変身

渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に豪農の長男として生まれ、明治維新前夜の若い頃には尊王攘夷派として横浜の外国人居留地を焼き討ちにしようと企図したがとん挫。京都に逃げ、徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜に仕えた。

「あれ(焼き討ち)はやめて良かった。やっていれば殺されていた」

そして、使節団の一員としてフランスに派遣される機会を得た。西洋近代国家の在り方や経済システムに触れた経験が大きな転機となった。帰国後、誕生間もない明治政府に奉職するが、数年で辞めて実業家の道を歩むことになる。設立・運営した銀行・企業は500を数える。

渋沢栄一が設立、運営に関わった主な銀行・企業・組織(現名称)

・みずほ銀行 ・りそな銀行 ・王子ホールディングス ・東京ガス ・IHI ・いすず自動車 ・東京海上日動火災保険 ・東京電力ホールディングス ・東洋紡 ・太平洋セメント ・三越 ・東京メトロ ・キリンホールディングス ・清水建設 ・東京製綱 ・帝国ホテル ・サッポロホールディングス ・アサヒグループホールディングス ・大成建設 ・古川電気工業 ・富士通 ・横浜ゴム ・東洋経済新報 ・川崎重工業 ・東宝 ・帝国劇場 ・東京会館 ・東京銀行協会 ・日本商工会議所 ・東京証券取引所

しかし、渋沢栄一に関する多くの研究文献を著した雅英氏によると、実業家の枠にとどまらない人だった。


渋沢栄一の肖像が使われる新しい1万円札のサンプル(時事)

渋沢家は財閥にあらず

「いわゆる実業家というよりも文化人というか、日本全体を考えた人だった。非常に敏感で危ないことには手を出さない人だったと思います。その代わりお役に立つことなら、例えば商工会議所とか帝国ホテルとか、人から話があると、自分で駆け回ってチームを集めて非常に一生懸命やった。パブリックな仕事を」

同時代を生きた三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎とは正反対の経営哲学を持っていた。雅英氏の講演録『岩崎弥太郎と渋沢栄一』(2010年6月14日)によると、岩崎は栄一を舟遊びに誘い、2人で独裁的に事業を進めて日本の実業界を牛耳ろうと協力を求めた。しかし、栄一は謝絶した。

その際に激論となったのは、栄一が唱えていた「合本主義」。その思想の根本は、「道徳と経済は両立する」という「道徳経済合一説」、いわゆる「論語と算盤(そろばん)」だった。利益の極大化を目的とする、当時としては米国流の稀有な資本家であった岩崎弥太郎の目には、皆でお金を出し合い日本経済の近代化を目指そうという栄一のアプローチは、甘いと映ったのだろう。

渋沢栄一は、表1にあるように現在でも日本の代表的な多くの企業を興した。しかし、長期にわたり運営した例は少ない。

「だいたいね、他の人が考えて、こういうことをやると日本のためになるんじゃないかって言うと、栄一は『それはいいね、是非私も一緒にやりましょう』と。後援者の役割の方が大きかったんじゃないか」

99歳の高齢とは思えないほど、渋沢雅英氏の記憶はしっかりしている。また、説明も明快だ。「渋沢財閥」と呼ぶ向きもあるが、雅英氏は即座に否定した。

「呼べませんね。渋沢が(当時の)1000万円だとしたら、相手(三菱や三井)は3億とか5億とか持っていて巨大な支配力があるわけですよ。栄一は影響力を持つだけのお金は欲しいんだけど、それを大事にして自分が大きくなろうという気はあまりなかったんじゃないか」


インタビュー会場となった青淵文庫(国指定重要文化財)を背景に。この建物は栄一が設立を助けた清水組(現清水建設)が施工し、書庫兼応接室として使用されたもので、雅英氏と同い年

公益には率先垂範

雅英氏が強調したのは、篤志家としての栄一だ。600もの社会事業に参画した。

渋沢栄一が関わった主な社会事業(現名称)

・東京都健康長寿医療センター(旧東京養育院) ・日本赤十字社 ・東京慈恵会 ・がん研有明病院 ・一橋大学 ・工学院大学 ・東京経済大学 ・東京女学館 ・日本女子大学 ・拓殖大学 ・田園調布の開発 ・日印協会

「東京養育院や日本女子大であるとか東京女学館とか、自ら院長や学長になった。ほとんどの会社には共同経営で参加しましたが、学校の方は自分が率先してやらなくちゃいけないと思ったのかもしれません。文化的な仕事には、自分の意志がはっきり出ている気がします」

「経済というより、この国はどうあるべきか、という意識を若い頃から持っていたのでしょう。普通は自分の仕事が大事ですが、栄一はバランスがいいというか、日本の国をつくるんだと、とてもうまくやったような気がします」


自分を抱く栄一の写真の前でニコリ

大恩人の慶喜に報いる

渋沢栄一の偉業として挙げられることは少ないが、雅英氏は栄一が編纂(へんさん)した『徳川慶喜公伝』への思いを語った。徳川慶喜は栄一を庇護(ひご)したばかりか、フランスに派遣してくれた大恩人。実業界で活躍していた栄一は土産物を携え、静岡で謹慎していた慶喜を機会あるごとに訪ね慰めた。

伝記編纂を思い立った栄一は、東京日日新聞(現毎日新聞)社長の福地源一郎(ペンネーム=福地桜痴)をはじめ多くの人の協力を得て、20年以上かけて全8巻の『徳川慶喜公伝』を刊行した。慶喜が死んで4年後のことだった。主君であった徳川慶喜の低い評価を正したいという気持ちがあったのかもしれない。

「それはあったでしょう。彼の仕事の価値が正当に評価されていなかった」

「(二人は)本当に仲良かったんじゃないかと思います。徳川慶喜が明治にとって、どんな意味があったのか。そんなことを普通の人は考えないけれど、栄一は自分で率先してやった。日本の歴史の姿を表す一つの材料だと思ったのでしょう」

最後に1万円札の肖像に採用されたことを、もう一度聞いた。

「なかなかいいチョイスだと思っているんです。というのは、いま、ああいうタイプのリーダーは、あんまりいないのではないでしょうか」

金融は「経済の血液」にたとえられる。江戸末期、明治、大正、昭和と激動の時代を生きた渋沢栄一は令和のいま、最高額面紙幣として「血液」の役割を担うことになった。グローバル資本主義が格差と分断を招いているこの時代、新1万円札を手に栄一の「道徳経済合一説」に思いをはせたい。


栄一の銅像と共に

撮影=大沢 尚芳

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