新潟県の花火と言えば、30万人以上の有料観覧者数を誇る「長岡まつり大花火大会」(長岡花火)が有名だ。超大型のスターマイン(早いスピードでの連続打ち上げ)や直径90センチの正三尺玉(しょうさんじゃくだま)など、2万発もの花火を打ち上げる華やかさで、例年、チケット入手が困難なほどの人気だ。

長岡市に隣接する小千谷市片貝町は、約1400世帯、3800人が暮らす小さな町だが、長岡に勝るとも劣らない花火大会がある。毎年9月に開催される「片貝まつり」は、「海の柏崎、川の長岡、山の片貝」と称される「越後三大花火」の一つだ。

2024年9月13、14日の両日、この小さな町に17万人もの人が押し寄せた。1万5000発と打ち上げ数では長岡に負けるが、「山の片貝」では、山に反響して響き渡る豪快な破裂音も魅力の一つ。そして、ギネスブックにも載った世界最大の正四尺玉(直径120センチ、重さ420キロ)の大迫力には、誰もが魅了されたはずだ。

観光客誘致目的のイベントとは一線を画す。最大の特徴は、個人(住民)が地域の神社である浅原神社に奉納する花火=「奉納煙火」(ほうのうえんか)=だということだ。


正四尺玉花火(2024年9月14日/写真提供:小千谷市)

祝・長女誕生から祝・99歳まで

一人ひとりの住民が “自分のため” に花火を打ち上げるので、その理由も子どもの誕生祝いや結婚祝い、家内安全、社業の発展、追善供養など多岐にわたる。初詣で神社に祈願する感覚に近い。

奉納に込めた思いは「花火番付」にまとめられている。相撲の番付表を模した奉納煙火の開催プログラムだ。何時何分に誰が、どんな花火をどのような思いで打ち上げるのかが記されている。


町中に設置された「花火番付」は2日間に打ち上げる花火を網羅


新聞スタイルの花火番付を観覧者向けに販売

祝長女 笑那(えな) 爆誕
超安産で生まれてきてくれてありがとう

片貝で生まれ育った26歳の長原魁(かい)は、長女誕生を祝うために尺玉二発を打ち上げた。自分が生まれた時に両親が花火を奉納してくれたように、子どもが生まれたら花火を打ち上げようと考えていた。「打ち上げ費用は安くはないが、とても満足している」と言う。

祝白寿(99歳) 市川恵美子
ばあちゃんおめでとう
大好きな花火
みんなであげるね

市川英雄(79歳)は99歳の白寿を迎えた母親のために、きょうだい4人と10人の孫でスターマインを打ち上げた。母親は施設に入っているが、元気な頃は祭り会場の桟敷席の最前列で花火を見ていた。

「最初はきょうだいだけで小さな花火を打ち上げるつもりでした。でもおばあちゃんの花火もそろそろ最後だろうということで、孫たちにも協力してもらってスターマインに奮発しました」


高齢の母親を囲む親族の写真を掲げる市川英雄さん

尺玉一発の打ち上げ費用は約7万2000円。打ち上げ時刻を指定できる「番外」扱いは、尺玉2発分、14万3000円以上が必要だ。連射連発のスターマインともなれば、20万円を超える。今年の片貝まつりでは、300近い個人や企業、団体など(一部、地域外からも含む)が花火を奉納した。

主役は中学の「同級会」

感謝と祈願込めた花火番付のメッセージを見ていると、これほどまでに幸せな花火大会は世界のどこにもないのではないかと感じる。

打ち上げの前に読み上げられる奉納者の思いにつかの間心なごませた後に、ドドーンと重低音を響かせ華麗に花開き、散る様を堪能する。その独特の間と余韻は、片貝まつりでしか得られないものだ。


浅原神社に参拝する人たち


桟敷席は打ち上げ場所に近い空き地に設置

片貝では、同学年の結束が固い。中学卒業と同時に「同級会」を結成し、高校を卒業すると「花火貯金」の積み立てを始める。20歳になる年の片貝まつりで、初の打ち上げ花火を奉納し、以降、女性33歳・男性42歳の厄年、50歳、60歳の還暦と、人生の節目にお金を出し合い花火で祝う。

今年の新成人「桜華会」は、積立金と家族や地域の協賛を合わせて500万円超を調達、華々しくスターマインを打ち上げた。


新成人の超特大スターマイン(写真提供:小千谷市)

一方、新成人へのお祝いに、「片貝町民一同」が世界一の四尺玉花火を打ち上げるのが恒例となっている。地上800メートルに花開く直径800メートル大輪は壮観だ。

還暦の同級会は、特に大々的な花火を打ち上げるのが習いだ。今年の「さざなみ会」は1000万円超のスターマインを奉納。5分以上も花火の音が鳴り響き、片貝まつり史上、最大規模の打ち上げになった。

片貝の人々にとって、祭りとは見るものではなく参加するもの。町外の会社に就職したが、祭りの準備のために会社を辞めた猛者までいる。皆、なんらかのかたちで参加したいとウズウズしている。そして、祭りが終われば、すぐに来年に向けて動き始める。

「片貝から嫁をもらうな」

一瞬のきらめきに大枚をはたき、思いを込める文化は江戸の「粋(いき)」にも通じるもの。それが今の時代も連綿と生き続けているのが片貝である。花火にお金をつぎ込む住民の祭り好きは周囲にも知れ渡り、昔から「片貝から嫁をもらうな、片貝へ嫁にやるな」と敬遠されていたという。

花火が死者の慰霊や悪疫退散と結びつくようになったのは、享保18(1733)年に隅田川で開催された水神祭が始まりとされる。時の将軍・徳川吉宗が江戸の街を襲った飢饉(ききん)や疫病で命を落とした多くの霊を慰めるため花火を打ち上げた。それが奉納煙火のきっかけとなった。

片貝では、この地域の庄屋が年中行事を記した文献『やせかまど』に、享和2(1802)年に多種多様の花火を上げ、「一本の打ち上げ失敗もない」とある。遅くともこのころまでに、花火文化は定着していたのだろう。慶応3(1867)年の花火番付には、現在と同じように、花火の種類とサイズ、奉納者の名前が記録されている。

片貝で花火製造が始まったのは、江戸幕府の直轄地だったからだ。鍛冶や染物、大工などの職人が多く住んでいた。その中の鉄砲と火薬を扱う職人たちが、花火を作るようになり、腕を競う中で製造技術が向上していったのだ。明治24(1891)年、三尺玉が初めて打ち上げられ、「三尺玉発祥の地」となった。

その伝統と技術は、片貝まつりで上がる花火の製造を一手に担う片貝煙火工業に引き継がれている。


片貝煙火工業で。花火玉の中に入れる「星」(球状の火薬)を作る作業


火薬を詰めた玉にクラフト紙を張り付けて補強


三尺玉、四尺玉打ち上げ用の大筒

「もっと盛り上がれや!」

片貝まつりでは、「玉送り」「筒引き」などの伝統行事も重要な要素だ。

玉送りとは、花火を浅原神社に奉納する儀式のこと。明治初期に、若い衆が各家庭を回って花火を集めて箱に入れ、浅原神社に奉納するようになったことが始まりとされる。今では花火玉は運ばないが、町内6地区の若者が手作りの屋台(山車)を引き回して、神社に向かう。若者だけでなく、各世代の同級会なども玉送りに参加するので、にぎやか極まりない。

屋台を引く人たちが歌う木遣り(きやり)唄、笛や太鼓の「シャギリ」(おはやし)も見どころの一つ。また、筒引きは花火の打ち上げ成功と無事を祈り、三尺玉の打ち上げ筒を引き回す儀式である。


「シャギリ」を奏でる人たち


筒引き(写真提供:小千谷市)


浅原神社から見える花火(写真提供:小千谷市)

20歳を迎える同級会が6地区を練り歩く「成人玉送り」は、若者が地域で大人として認められるための通過儀礼。各地区の境界でそれぞれの「支部長」が立ちふさがり、その許しを得られなければ、次の地区に進めない。支部長もかつて同じ試練をくぐり抜けた先輩たちだ。

許可の基準は、祭りを盛り上げているかどうか。同級会の「接待役」が注いだ酒を、支部長が飲めば地区を通過してもいいという合図だが、なかなか飲んでくれない。

「お願いします!」「通らせてください!」
「しっかりやれ!」「もっと盛り上がれや!」

そんな押し問答が1時間近く続き、ようやく通行の許しを得ても、次の地区で再び支部長と対峙(たいじ)しなければならない。結局、新成人が浅原神社に奉納するのは、夜8時近くになる。


20歳の「成人玉送り」(写真提供:小千谷市)

「成人玉送り」を経た若者の中には、主に片貝まつりの運営を担う「若連合」に参画する者もいる。今年、「祝長女 爆誕」の花火を奉納した長原魁は、昨年まで若連合のトップを務めていた。

「トップは運営の責任者として大忙しで、まともに花火を見ることができません。特に、去年は大変でした。妻が出産間近だったので、気が気じゃなかった。娘が生まれたのは祭りの2日後。今年は久々に花火を存分に楽しめました」

日本の「原風景」が残る町

片貝まつりでは小中学生も地区の玉送りに参加するので、お盆休み以降は地域や学校などでシャギリの練習に明け暮れる。子どもの頃からこうした体験を積み重ねるので、祭りのある日常が当たり前になっていく。


子どもたちも玉送りに参加

祭りの2日間は200軒もの屋台が並び、普段は静かな町が一気に熱気を帯びる。「祭りが近づくと、もう、そわそわしてね。1年で一番の楽しみだった」。片貝まつり実行委員会委員長を長年務める吉原正幸(74歳)は目を細める。


屋台がずらりと並びにぎわう祭りの夜

都市化、少子化・高齢化が進み、全国的に地域の共同体意識が希薄になっている。片貝まつりの伝統が連綿と続いているのは、生活の中に祭りとその関連行事が深く根を張っているからだ。さまざまな地域で独自の伝統的な通過儀礼が消失していく中で、成人玉送りのような荒っぽい儀式も継承してきた。

もちろん、片貝でも若者の数は減少している。戦後のベビーブームでは200人いた片貝中学校の卒業生も、直近は26人。数が減れば、花火貯金の負担が増し、玉送りなど行事の催行にも影響する。それぞれの代で同級会を抜ける人もいる。ライフスタイル、人間関係などあらゆる面で個人化が進む今、ムラ社会的な空気を嫌う人がいても不思議ではない。 

片貝の共同体がどのように存続していくのかは分からない。ただ、日本人の「原風景」というものがあるとすれば、それが残っている数少ない場所なのは間違いない。

本文中写真(小千谷市提供を除く)=篠原匡撮影

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