戦時中の1942年に水没事故が発生し、朝鮮半島出身の作業員ら183人が犠牲となった山口県宇部市の海底炭鉱「長生(ちょうせい)炭鉱」。今も海の底に眠る遺骨の回収と返還に向け、市民団体や遺族らが本格的に動き出した。植民地時代に、日本に渡った多くの朝鮮半島出身者が炭鉱業などに従事し、命を落とした。事故から82年。今、遺骨回収が本格化したのはなぜか。現場に向かった。(西田直晃)

海面から突き出た2本の「ピーヤ」=山口県宇部市で

◆「危険な炭鉱」日本人に恐れられ

 海面に突き出た2本のコンクリート柱。「ピーヤ」と呼ばれる排気・排水筒が炭鉱の面影をわずかに伝えている。海に沈む遺骨に思いをはせながら、市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の井上洋子共同代表(74)はそっとつぶやいた。「『戦争は終わりました』と伝えるには、遺骨を引き揚げなければ。それが遺族の願いです」  長生炭鉱は1932年に本格操業を開始。事故までに十数回にわたり、日本統治下の朝鮮半島から1000人を超える労働者が駆り出された。宇部市史は、この炭鉱は「坑道が浅く、危険な海底炭鉱として知られ、日本人坑夫から恐れられたため、朝鮮人坑夫が投入されることになった」「朝鮮炭鉱と蔑称された」と記す。

◆朝鮮出身者136人、日本人47人が生き埋め

 42年2月3日朝、陸地側の坑口からつながる約1.1キロ先の海底坑道の天盤が崩れ、坑内にいた136人の朝鮮出身者、47人の日本人が生き埋めになった。作業員を残したまま坑口は閉じられ、今に至るまで一度も開けられていない。

水没事故前の長生炭鉱の桟橋=1933年撮影(長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会提供)

 ピーヤを臨む砂浜から海岸通りを歩くと、刻む会が建立した「犠牲者追悼碑」に行き着いた。91年に発足した同会は、朝鮮半島の犠牲者の本籍地に「死者への手紙」を送付。この連絡をきっかけに、翌92年に韓国遺族会が結成されて以降、毎年のように遺族を現地の追悼式に招いた。2013年に完成した追悼碑には、身元が判明した死者の本名を刻んでおり、韓国・朝鮮人犠牲者と記された石柱に「強制連行」と添えた。

◆「日本人の、日本政府の誠意でしょう」

事故から40年後に完成した殉難者之碑。跡地近くにあるが、手入れは行き届いていなかった

 「政府には歴史を正面から見据えてほしい」と力説する井上さん。跡地周辺には事故から40年後に建てられた別の「男たちの碑」と呼ばれる殉難碑もあるが、日朝間の歴史に関する記述は皆無で、遺骨の存在にも触れていない。「遺骨を掘り返し、遺族に返すのは人道的に当たり前。日本の、日本人の、日本政府の誠意でしょう」と続けた。  海岸近くを単線のJR宇部線が走っている。案内された線路脇の林に「坑口を開けよう!」と記された木の看板があった。刻む会と韓国遺族会のメンバーは、日本政府に遺骨の発掘を求める交渉を続けてきたが、厚生労働省は「海底にある遺骨の発掘は困難」とにべもない。現地視察すら行われない現状に「高齢化した遺族はすでに80代、90代。年齢的に後はない」と語気を強める井上さん。今年7月、坑口を開け、坑内の遺骨を回収するための寄付を呼びかけるクラウドファンディングを始めた。

4~5メートル地中にあるとされる坑口を開け、遺骨を回収する計画を説明する井上さん=山口県宇部市で

 10月にも、地中の坑口を掘り出し、水中ドローンなどで遺骨の調査を進める計画で、工事や遺族の来日費用に充てる800万円を募る。会員の松元一也さん(67)は「海の遺骨がわが子なら、人はどう思うのか。遺族にとっては同じ気持ち。上の世代が償えなかった事故をどうしても償いたい」と胸の内を語った。   ◇  ◇

◆動員された朝鮮人の遺骨、返還されず

 戦時中の1939年、植民地だった朝鮮に対して日本政府は、労務動員計画を策定し、時期に応じて募集、官による斡旋(あっせん)、徴用という形で朝鮮人を労働者として日本に送った。東京大の外村大教授(日本近現代史)は「39〜45年に労務動員計画・国民動員計画に基づいて朝鮮半島から日本へ送り出された朝鮮人は70万人余に上る」と説明する。

長生炭鉱の排気口「ピーヤ」(左)を調べる関係者ら=7月、山口県宇部市で

 2004年の韓国側の要請を受け、政府は民間労働者らの遺骨調査に乗り出した。厚生労働省によると、国内237の寺院などに1018柱の遺骨があることを確認した。しかし、政府によって返還されたケースはない。朝鮮半島出身の軍人・軍属の遺骨9200柱以上を返還したのとは、対照的な対応となっている。

◆虐殺事件と重なる「風化の恐れ」

 政府は長生炭鉱の遺骨調査にも後ろ向きで、問題を取材したノンフィクションライターの安田浩一氏は「国の指示による増産態勢が取られる中、多くの朝鮮人労働者が海底で働いた。本来は政府が率先して遺骨収集にかかわるべきだ。長きにわたって放置してきた政府の姿勢に憤りを感じる」と指摘する。

手前の看板周辺の4~5メートル地中に坑口があるとされる。奥は2本のピーヤがある海

 公的機関がかかわろうとしないことで事実そのものが風化しかねない事態を関東大震災の朝鮮人虐殺と重ね、こう強調する。「当時の新聞記事もほとんどなく、地元でも事故が継承されていない。遺族や関係者にとっては苦渋に満ちた年月だったはずだ。今回、地元の市民団体の活動がなければ、事実そのものがなかったことにされていたのではないか」

◆傷つくのは「日本人の名誉」

 政府による民間労働者の遺骨返還が進まない中、近年は歴史自体を否定・修正する動きもある。14年、奈良県天理市が旧日本海軍の飛行場跡地に設置していた「強制連行」の文言が入った説明板を撤去したほか、今年2月には群馬県が県立公園「群馬の森」(高崎市)にあった朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去した。

行政代執行で撤去される前の朝鮮人追悼碑=1月、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」で

 先の外村氏は「このような歴史否定の状況が広く知られると『日本人は過去の歴史を反省していない』という批判が国際社会の中で説得力を持つ。加害の歴史を否認することで損なわれるのは日本人の名誉だ」と危ぶむ。(山田祐一郎)

◆デスクメモ

 山口・宇部は林芳正官房長官ゆかりの地。国が遺骨発掘しないのは「埋没位置や深度が明らかでないため」と1月に答えている。やる気のなさがありあり。では、今回の調査が実現し、遺骨が見つかったら対応を変えるのか。次期首相を狙う政治家として自らの言葉を全うしてほしい。(岸) 

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