影絵作家の藤城清治さん(100)が、終戦の日に合わせて東京新聞のインタビューに応じた。志願して海軍予備学生となり、少尉に任官後は連合国軍との本土決戦に備え、千葉県の九十九里浜で訓練を続けた。そんな中でも「人間の喜びを知ってもらおう」と、少年兵を前に人形劇を演じた。  メルヘンの世界を描く作品に加え、近年は広島の原爆ドームや東日本大震災の被災地なども題材にする。「戦争も災害も十分に起こりうる。いろんな苦しさを乗り越える力を与える絵を描かないと」。制作意欲に陰りは見えない。(聞き手=社会部長・安藤淳)

◆勤労動員先の農村で、子どもたちに見せた人形劇

 ―1945年8月15日の終戦時ですが、どのような記憶がありますか。  米軍の日本本土上陸を防ごうとしている第一線だったからね、日本刀を振り回す将校や、自刃した人もいましたよ。そういうのを目の前で見ました。戦争の終わりの方では、特攻隊も飛び込んでいったし、戦艦大和も出て行ってあっという間に沈められて、将兵がたくさん亡くなった。だからここまで生きたなら、自刃する必要はないと思ったけど、それを言える状況ではなかったね。

戦争体験を話す影絵作家の藤城清治さん=東京都大田区で(松崎浩一撮影)

 ―軍隊には志願したのですか。  旧制中学で日吉(横浜市)の慶応普通部に入り、そのまま大学予科に進んで2年生の時か、真珠湾(日米開戦)があったのは。しばらくして授業がなくなって勤労動員。静岡の農村の畑で排水の暗渠(あんきょ)工事をして、次は横浜の工場で飛行機のタイヤとか防弾用ラバーを作ったりね。  静岡の農村では、もう若い男はみんな戦地に行っちゃって、老人か子どもか女の人しかいない。そんなところで引率の先生が僕を中心に別動隊をつくって、人形劇を上演したんだね。映画も芝居もやってはいけないけど、学生がやる人形劇だけはまあ、いいや、とお目こぼしをもらったのかな。集まった子どもや女の人たちに見せたら、本当に喜んでくれた。  戦争中で、だんだん負け戦(いくさ)的な雰囲気が少しずつ出てきて、それでも人形劇で元気を出そう、笑ってやる、明るくやる、頑張ろうと言っていた。でも、それでも「直接、軍隊に行ってやらなくちゃ」という気持ちはあったんだね。それで海軍に志願した。

◆僕はやっぱり、色に敏感だから

 ―海軍だったんですね。  海軍におれば、軍艦もあるし飛行機も多い、いろんなことで頑張ろうというんでね。それに陸軍と違ってカーキ色じゃなくて、紺色の制服が多いじゃない。実際に入ってみたら、旗の色とか信号とかを覚えやすかった。僕はやっぱり、色に敏感だからね。

海軍予備学生となった藤城清治さん©SeijiFujishiroMuseum

 昭和18(1943)年から海軍予備学生として滋賀の航空隊で1年弱かな、訓練を受けて少尉になって。それから館山(千葉県)で陸戦の訓練を受けて、第3航空艦隊の司令部があった木更津(同)から九十九里浜の香取航空隊に行った。  着いて1カ月も経(た)たないうちに、兵舎とか飛行機の格納庫とかみんな焼かれちゃって。毎日のように上空を爆撃機が通ってね、対空砲火でばーっとやるんだけど。兵舎が焼かれたら近所の農家に分かれて、飛行機はコンクリートで応急の格納庫、掩体壕(えんたいごう)ですね、をいくつか造った。

◆部下は全員少年兵、戦車に火炎瓶を投げる訓練をさせた

 ―そして本土決戦に備えた。  部下は全部、(15歳前後の)少年兵。訓練では、戦車が来たときに備えて、砂浜に穴を掘って火炎瓶を投げる。「もっと一生懸命投げろ」とか言ってね。それから砂浜の後ろの方の山にトンネルを掘って、銃眼だけを開けてね。その後ろに陸軍の一番強い大部隊が来ているらしいのね。海軍は波打ち際で時間を稼げというわけ。  だから敵が上陸してきたら、もうおしまいだな、と思っていた。それに沖縄が奪われたとか一応分かっていたから、これはやっぱり負け戦だなと感じていた。

作品原画の前で戦争体験を話す影絵作家の藤城清治さん=東京都大田区で

 そんな中で、毎日はできなかったとは思うけど、人形劇をやった。隠れてではなく、堂々とね。人間の喜びというか…、お話があり、音楽があり、少年兵がそういうのを知らないで死んじゃうわけにはいかないだろうと。主役は人形じゃなくて、お客さん(少年兵)のつもりだった。  ―人形劇との出会いは。  勤労動員に入る前に、慶応の学園祭で人形劇を初めて見てね。ちっちゃいけど人形と舞台、音楽、照明があって、絵を描くのと違って、一人じゃなくてみんなでやる。これは面白いなと。それで人形、小道具、カーテン、衣装、なんでも自分で作った。

◆ヒトラーの似顔絵描いてみんなにプレゼント

 ―ものづくりはお得意だったのですね。  小さいころから模型作りや絵が好きでね。小学校に入ってすぐ、父が目黒に家を建てた時、地鎮祭や柱が立つ様子を、母と週に1、2回見に来ていた。それが何か作ったり、絵を描いたりするのに関係しているかもしれない。

子どものころ、家族で奈良を訪れた時の記念写真。手前中央が藤城清治さん©SeijiFujishiroMuseum

 当時、目黒のうちの周りは畑とか竹やぶばっかりで、牛なんかが畑にいた。小学校のころは、そういった風景を描いていた。中学で慶応普通部に行って、そのころの満州国(中国東北部)の地図を山や汽車、家、学校などを描き込んで作ったら、賞を取った。細かく正確に描いたから、みんなびっくりしていた。屋根の瓦を一枚一枚作って、自分のうちの模型を作ったこともある。  中学のころだったか、ドイツのヒトラーとか、イタリアのムソリーニが出てきた。僕は似顔絵がうまかったから、ヒトラーの似顔絵を描いて、ずいぶん、みんなにプレゼントしたね。

◆第2志望の慶応で、将来につながる出会い

 ―当時の軍国主義の影響はどうしても受けますね。  そうね、子どものころからずっと戦時中じゃないですか。もう中国と戦っていたし、その前の日露戦争でロシアに勝ったとか、(日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を率いた)東郷平八郎元帥とか、(第1次上海事変で戦死した)爆弾三勇士とか、小学校ではそういうことばっかり話題になったしね。

影絵作家の藤城清治さんらが経営する「ラ・ビーカフェ」=東京都大田区で

 大岡山尋常小学校(目黒区)で成績が良くて、旧制中学の受験では将来、軍人になる人が多いと言われた東京府立四中(現都立戸山高)を先生に勧められた。軍人はそんなに嫌いじゃなくて、まあ、軍国少年だったよね。先生に言われたとおりに受けたんだけど、落ちちゃった。それで2番目に希望した慶応に入った。  ―それが絵や造形を深めることにつながった。  美術部に入ったら仙波均平先生がいて、ちょっとした絵描き以上の本格的な絵の先生でね、版画とかモノクロの油絵とかを中学の時から教わった。別に造形の先生がいて、大工道具のかんなやのみを袋に入れて毎日学校に持っていって、箱を作ったりしていた。それがまたすごくうれしかった。いい学校だったよね。

1942年、銀座で開いた初めての個展©SeijiFujishiroMuseum

 大学予科へ上がってパレットクラブという当時の文化会に入って、その部長も仙波先生。そこで1年先輩の稲村立春さんと出会った。彼が、マチス(フランス画家)の弟子でパリ帰りで人気があった猪熊弦一郎さんや、新制作派で猪熊さんと仲間の脇田和さんに引き合わせてくれた。  猪熊さんも脇田さんも、近くに住んでいたから、稲村君と自転車でぶらぶら訪ねてね。ピカソだ、マチスだといいながら、モダンな感じのデッサンや絵を描いたりしていた。  学生食堂では、よくパレットクラブの学内展を開いてね。50枚のうち30枚くらいは僕の絵だった、夢中に描いていたから。そしたら退役軍人の慶応の学生課の人が見回りに来て、僕の絵を全部外して持って行かれちゃったわけ。モディリアニ風とかピカソ風といった形でね、青い顔やら、首が長いやらの女の子の絵だったからかな。

戦争体験を話す影絵作家の藤城清治さん=東京都大田区で

 仙波先生は僕と一緒に学生課に行って「この子は絵がうまいんだから返してほしい」と言ってくれた。そしたら「戦時中だから、ちょっと気を付けて」と注意するだけで返してくれた、なんてこともあった。

◆上演できるのが当たり前の平和になったら…

 ―絵に向き合う環境はまだ残っていたと。  僕は100歳になったけれど、15、16歳から20歳の間が最高だった。教えてくれた仙波先生も当時30代と若くて。僕にとって一番大事な時に、いい先生に出会ったと思う。そこに戦争があり、周りの時代はよくなかったけどね。  こうして振り返ると、生きていて一番大事なのは、子どものうちや若い時代に、その少し上の30代、40代の先生が組み合わさって教えていくことかなと思う。どちらも一番、力を発揮できる年代だと思うから。  ―とはいえ藤城さんは1960年代にカエルをモチーフにした着ぐるみ「ケロヨン」の人形劇で一世を風靡(ふうび)し、その後も影絵作品を次々に発表するなど、ずっと活躍が続いています。

「ケロヨンのドライブ」©SeijiFujishiro2014

 これだけ続けてこられたのは、少年兵を前にやった人形劇があったからと思います。戦争中に、いやいやながらやらされたのでも、隠れてやったのでもなく、必死になってやった。  平和になって上演できるのが当たり前になると、なんだ、あの戦争中の気持ちが出てないな、とすごく感じたんだね。いちおう、燃えているんだけど、あのころほど燃えてないと。そうして必死だったことを思い出して、続けてこられた。

◆苦しさ乗り越えていく力、与えるような絵を

 ―2005年からは広島の原爆ドームを題材にした影絵作品も手がけていますね。  戦争に負けて、広島の悲惨な状況を描くというのは、自分ではできないなと思っていた。あの時も、原爆ドームを描くために訪ねたのではなかったけど、鉄筋コンクリート造の建物が屋根は鉄骨だけになって残り、ああいうふうに曲がり、焼けただれ、れんがの色にしろ…。そういう中で多くの人が亡くなった。

「悲しくも美しい平和への遺産」©SeijiFujishiro2005

 じーっと見ていたら、なんて言えばいいかな、一つの宝のようにね、すごい意味合いを感じ、心を打たれた。そして、ああいう悲惨なことはあったけども、それを超えて人間は生きていかなくちゃいけないんだ、そのための喜びとか元気、勇気を出すようなものを描き、人の心に訴えたいと思った。  ―それはその後、東日本大震災を題材にすることにもつながるのですか。  そうだね。戦争だけでなく、災害も起こることは十分あり得るわけだから。いろんな苦しさを乗り越えていく力を与えていくような絵を描いていかないといけないと思う。美しい、楽しいのをただ描くのではなく、そういう部分も合わせて描いていきたい。  ―世界各地では紛争が絶えません。  ウクライナとロシアにしろ、イスラエルにしろ、いろんな矛盾や歴史の問題がある。でも一番大事なのは世界を、地球をみんな一つの楽しいものにすること。自分の国だけのためを考えるのではなくね。

「スイカ割り」©SeijiFujishiro1999

 日本は戦争に負けた国だから、それを考えないといけないんじゃない? だけど経済的にロシアを切り捨てたりしている。アメリカにしても、民主主義ではずいぶん進んでいると思っていたけど、今はそうでない方向になっていると思う。  本当の平和とは、動物や花や全部含めて、素晴らしい地球にしていくってことじゃないかね。 

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