79年前、アメリカの原爆が落とされた広島では、日本が占領していた東南アジアから来た「南方特別留学生」の若者たちも被災し、2人が亡くなった。被爆2世の画家が描いた肖像画を通じ、その足取りをたどる企画展が東京都内で開かれ、異国で尽きた命を悼み、核なき世界の実現を願った。(安藤恭子)

増田さんが描いた被爆者の肖像画=3日、東京都渋谷区の東京ジャーミイで

◆50人を超える被爆者の肖像画を描く

 イスラム教のモスク「東京ジャーミイ」で3日、企画展「ヒロシマで被爆したムスリムの南方特別留学生」が1日限りで開かれた。  「日本を愛した人だった。自らも大やけどを負いながら、テントで野宿をして日本人を救援した。その優しさと気品にこだわって描きました」。19歳で被爆死したサイド・オマールさんを描いた絵を示し、広島市出身の被爆2世の画家、増田正昭(まさかず)さん(71)=京都市=がほほ笑んだ。  2018年から50人を超える被爆者の肖像画を描いてきた増田さん。南方特別留学生の絵はその一環だ。太平洋戦争中に「南方」と総称された東南アジアの占領地区などから招かれた留学生で、1943~44年に205人が来日。日本の支配下で現地の将来を担うことを期待され、「大東亜の人質」とも呼ばれた。

◆「多くの人は、語ることもできずに亡くなった」

 現在のマレーシア出身のオマールさんもその一人。広島文理科大(今の広島大)に留学中の45年8月6日、爆心地から約900メートルの寮で被爆した。終戦後、帰国に向けて立ち寄った京都で病状が悪化、9月4日に亡くなり、京都の墓に埋葬された。企画展では、同じ寮の付近で19歳で被爆死したニック・ユソフさんの肖像画も披露された。  両親とも被爆者の増田さんは、50歳でうつ病になったのをきっかけに絵画を始めた。母の死後、「原爆を風化させまい」と被爆者の肖像画を描くようになった。亡くなった人も生前の記録や写真を参考にし、絵の中の被爆者が動き出して見えるほどに集中して描く。  被爆2世に多いという心身の不調を抱えながら、被爆者の人生を取材し、数カ月かけて描く作業はつらい記憶を想起させ、大変さも伴うという。それでも「自分が描く絵は被爆者そのもの。多くの人は、語ることもできずに亡くなった。存在を伝え、遺族の心にいつまでも残る表現となれば」と願う。

被爆した南方特別留学生らを追悼し、オカリナを演奏する上田紘治さん。後ろは増田さんが手がけた肖像画=3日、東京都渋谷区の東京ジャーミイで

◆響け追悼のオカリナ

 この日は広島で入市被爆した上田紘治さん(82)=東京都八王子市=も来場し、追悼のオカリナの音色を響かせた。原爆投下時は3歳で郊外に疎開していた。「爆心地の地表の温度は3000~4000度。その下にいたら私の人生はなかった」と話し、こう思いを明かした。「決して報復をしない。生きている人は死者の思いを受け止め、発信する。そして再び三たび、繰り返してはならない。原爆の実相を知ることが、平和につながる一番の近道だと私は思う」 

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