小学校では同級生からも、教員からも無視されていつも1人で過ごし、家族がかわいがっていた飼い犬は留守中に連れ出され、裏の雑木林の木にロープでつるされ、殴られ、白い毛が真っ赤に染まっていた。家に放火された跡を何度も見つけた。  「なぜ人はこれほど非情になれるのか。何度も自身に問いかけました」  6月に厚生労働省で開かれたハンセン病回復者らの追悼と名誉回復のための式典で、父親が回復者だった女性が語った被害の実態だ。彼女の母親は70年前、自ら調べてハンセン病は怖い病気ではないと判断し「病気だからといって大切な人を見捨てることはできない」と家族や行政の反対を押し切って病気を発症していた父親と結婚。家族とは絶縁し、差別の中で「人生を奪われていった」という。女性は実名を伏せ「190番」と名乗った。国の不当な隔離政策による差別被害を家族らが訴えた訴訟に参加したときの原告番号だ。  埼玉県内の80代男性は父親と姉が回復者で、2人は男性が小学生のときに瀬戸内海の島にある療養所に隔離された。男性が受けた直接的な差別は、小学校の同級生に「おまえのおやじ島流し」と言われたことと、大学時代に恋人から「あの家には、らい(ハンセン病)があるから、付き合ったらダメだと親に言われた」と伝えられたこと。これらの言葉に「人生を支配された」という男性は、父親と姉のことを妻にも明かせず、生きるためにたくさんのうそを重ねた。差別を恐れ、家族訴訟には加われなかった。  ハンセン病患者や回復者の家族の状況はさまざまだ。差別されて苦しんだ人もいれば、ハンセン病にかかった親やきょうだい、子どもらを差別する側になってしまった人もいる。ある回復者からは「差別というのは身近な人ほどするもの」と聞いた。社会は少しずつ変化し自分にはたくさん友人がいるが、親族からはいまだに拒絶されて親の墓参りもさせてもらえない―とその人は静かに語った。  「家族を差別するなんて」と断罪することは簡単だが、190番さんの話を思い浮かべてほしい。これだけ壮絶な差別や暴力が自分だけでなく家族にも向けられると分かっていて、果たして闘えるだろうか。正直に言う。私は自信がない。  「今思えば、普通の方々も国からの誤った政策、情報で洗脳、誘導され、そのまま信じてしまい、家族を守るため、大切な誰かを守るため、私たちを排除する選択しかなかったのだと思います」  190番さんはこうも語った。苦しみ抜いた末にたどり着いた言葉の重みをかみしめる。人間は弱い。人間は間違える。被害者も加害者も決して特別な人ではないのだ。その前提で、私たちは家族の被害も加害ももっと学ぶべきだと思う。差別を繰り返さないために。


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