太平洋戦争末期、沖縄から本土に向かう学童らを乗せた疎開船が米軍潜水艦の魚雷で沈没し、1484人が犠牲になった対馬丸事件から今夏で80年。学童を引率し、生き残った女性教諭は60年以上自責の念に苦しみ、晩年、語り部として生涯をささげた。その遺志を継ぐ長女上野和子さん(77)=栃木県栃木市=が母の遺品のノートやメモ書きを整理し、関係者らへの聞き取り取材などを加えて1冊の本にまとめた。母の思いをつなぐために。 (梅村武史)

◆「子供らは蕾のままで散りゆけり」

教諭時代の美津子さん=上野和子さん提供

 「歳月がたち、対馬丸を知らない人も多くなったが、悲劇を埋もれさせてはいけない」と和子さん。書籍名は「蕾(つぼみ)のままに散りゆけり」(悠人書院、税込み1980円)。2011年に90歳で亡くなった母、新崎(あらさき、旧姓・宮城)美津子さんの短歌「子供らは蕾のままに散りゆけり嗚呼(ああ)満開の桜に思う」から取った。  事件当時、引率教諭だった美津子さんは那覇市の天妃(てんぴ)国民学校に勤める24歳。学童らと疎開船の対馬丸に乗り、被害に遭った。美津子さんは海に投げ出されて4日間漂流した後に救助されたが、乗船した800人を超す学童の大半が亡くなった。15歳だった妹、祥子(よしこ)さんも犠牲になった。

◆4日間の漂流、細っていった助け求める声

美津子さんがひそかに対馬丸事件を書き留めていたノート

 本には美津子さんがひそかにつづっていた漂流の4日間と、当時の思いを込めた短歌が紹介されている。  《さんざめく子等を乗せたる対馬丸我が目の前で魚雷命中す》  《いつまでも消ゆることなき少女らの声「宮城先生…」と細りゆく声》  《親を呼び師を呼び続くるいとし子の花かんばせの命の惜しき》  《妹よ堅く握れる手が離れ学業半ばの汝(なんじ)も沈みき》  学童らといかだにつかまり、荒波にもまれた。昼間はギラギラした太陽、夜は凍えるような寒さ。サメの群れと遭遇し、睡魔や幻覚が襲う。教え子や妹が海中に消えていった。

◆続いた自責の念、86歳で体験を語り始める

母の思いをつづった本を手に語る上野和子さん=栃木県栃木市で

 対馬丸事件の経験を長年、家族にも詳しく語らなかった美津子さん。86歳だった06年11月、地元公民館での戦争体験者の講演会で初めて重い口を開いた。地元の教育関係者から強い勧めがあったという。  講演会に付き添っていた和子さんは「初めて聞く話にぼうぜん自失となった」。多くの教え子を助けることができずに生き残った自責の念に、苦しみ続けてきたことを思い知った。  その後、美津子さんは高齢を押して3回の講演を開いた。和子さんも公益財団法人対馬丸記念会の認定語り部となり、母の話を伝え続ける。胸に刻む思いは、母の歌。  《風化させじ短き命の尊さを語りべとなり世にし伝えん》

 対馬丸事件 国民学校の学童や教諭、一般疎開者らを乗せた貨物船対馬丸(6754トン)が1944年8月21日夕、長崎に向けて那覇港を出航。翌22日午後10時すぎ、鹿児島県のトカラ列島悪石島付近で、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。対馬丸記念館(那覇市)によると、推計で1788人が乗船し、学童784人を含む1484人が犠牲になった。



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