エスキーテニス」考案者の宇野本信氏のひ孫、翼さん=2024年5月、広島市

 広島発祥の「エスキーテニス」はテニス、卓球、バドミントンを「足して3で割ったような」スポーツだ。卓球のようなラケットで、羽根付きの直径約4センチのゴムスポンジボールを打ち合い、老若男女問わずに楽しめる。

 考案したのは原爆でわが子を亡くした男性で、スポーツを通じた平和への願いが込められている。(共同通信=下道佳織)

▽魅力

 5月11日に広島市で開かれた大会は、10~80代の女子選手約50人が参加し、白熱したラリーと駆け引きが繰り広げられた。縦8メートル、幅4メートルのコートで、ネット越しにボールを打ち合う。

 テニスと似ている部分も多く、相手が打ち返せなかったり、ボールがコート外に出たりするとポイントに。ただラリー中に同じプレーヤーが連続してノーバウンドで打ってはいけないなど独自ルールもある。

 この日のダブルス戦で優勝したのは、東京都狛江市の会社員松村宏子さん(56)と、鳥取県湯梨浜町の会社員櫻井尚子さん(48)のペアだった。松村さんは「年齢性別関係なく試合に勝てるのが魅力。一緒に楽しくエスキーテニスをやりましょう」と笑顔で話した。

▽誕生

 1945年8月6日、広島市に原爆が投下され、市街は焼け野原になった。「子どもたちに楽しみを与えるスポーツを作ってほしい」。復興を目指す地元の政治家や学者らの有志から依頼を受けた地元の実業家宇野本信氏(1959年に58歳で死去)は狭いスペースでプレーでき、戦後の物資不足でも材料が集まるエスキーテニスを1948年に誕生させた。

 宇野本氏は13歳だった三女武子さんを被爆の約1カ月後に原爆症で失っていた。次女政さんの手記によると、宇野本氏はスポーツを通じ平和になればと、私財を投じて普及活動に取り組んだ。

 県も発信に取り組み、県内企業や役所の職員が昼休みの娯楽として楽しみ、大学の部活動にもなった。現在は11府県に連盟があり、全国大会も開かれる。

 日本エスキーテニス連盟の木原亮一郎理事長(58)は、「エスキーテニスは中毒性のあるスポーツ」と語る。

▽体験

 理事長の指導を受けながら、ソフトテニス経験者の記者(28)が体験してみた。

 テニスコートの8分の1のサイズにボールを入れるのはなかなか難しいが、慣れると打ち合いが続くように。ふわっと浮いたボールを、思いっきりラケットを振ってアタックを決めると気持ち良い。

 同じプレーヤーが連続してノーバウンドで打ってはいけないという独自のルールのため、一度ノーバウンドで打つと後ろに下がらなければいけない。前後の動きが多く、短時間でもかなりの運動量になった。

 また、ダブルスでは相手からボールを隠す「ブラインド」という技があり、相手後衛の前に相手前衛が立たれると、どこにボールが打たれるのか全く分からない。戦略的なプレーと頭脳戦に、記者はすっかりとりこになった。

▽遺志

 しかし、競技人口は減少しつつある。理事長は、かつては企業のチームがあり学生も多かったものの、「新型コロナウイルスの影響で学生のプレーヤーが一気に減った」と話す。

 競技人口を増やすために体験会を開いたり、道具の貸し出しを行うなど連盟としても対策を講じる。「プレーしたい人がいれば、全国どこにでも道具を持って駆け付ける」と力を込める。

 宇野本氏のひ孫も、普及活動に奮闘する。日本エスキーテニス連盟事務局の翼さん(39)は、昨年からエスキーテニスを取り入れた平和学習や体験会を、小学校や公民館で開催する。「曽祖父の遺志を継ぎ、平和への願いとともに、エスキーテニスを全国に広めていきたい」と意気込んだ。

 問い合わせはエスキーテニス連盟事務局、電話082(251)1436。

広島市で開かれた「エスキーテニス」の大会=2024年5月
「エスキーテニス」を考案した宇野本信氏(中央、ひ孫の翼さん提供)
原爆症で亡くなった宇野本信氏の三女武子さん(宇野本翼さん提供)
昭和40年代、広島県内の企業が昼休みに「エスキーテニス」をプレーしている様子(日本エスキーテニス連盟提供)

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