「カーナビではたどり着けない」。湯治ファンの間でそうささやかれている北上山地の湯どころがある。180年以上の歴史があるとされる、岩手県遠野市宮守町の「飛龍(ひりゅう)山の湯」。山奥の民家に、86歳の粒針(つぶはり)キミさんが1人で住み込みながら、「秘湯」を守り続けている。

 取材に訪れたのは5月の連休。電話で取材の約束を取りつけてはいたものの、「飛龍山の湯」は記者のカーナビにもグーグルマップにも出てこない。遠野市中心部から約40分、途中で地域の住民に尋ね、脇道からガードレールのない凸凹の山道を約10分登った先に、民家が1軒ぽつんとたたずんでいた。

 「まずはお風呂に入ってくださいな」

 笑顔で出迎えてくれた粒針さんからは、取材の前に入浴を勧められた。民家の奥に約4畳半ほどの浴室があり、ヒノキの浴槽の中にトロリとした湧き水が沸いている。

 粒針さんはこの民家で生まれ育った。結婚して花巻市東和町に転居したものの、約30年前から実家を手伝い始めた。現在は4月中旬から11月末まで、月の半分ほどをこの民家で寝泊まりしながら、入浴客を受け入れている。

 体が芯から温まると評判で、年間数十人から100人近くが訪れる。客が来ない日も多いが、「来た人ががっかりしないように、お湯だけは毎日沸かしている」という。

 入浴料は「お気持ち」。民家の座敷で寝るだけの宿泊も可能だが、宿泊料も「お気持ち」だ。

 理由を聞くと、大声で笑った。「だってお金を取れるような、大したものじゃないのよ」

 注意事項は特になし。ただ大昔、入浴客が酒に酔って風呂をひっくり返したことがあり、その後、湧き水が出なくなったという言い伝えがあるため、「節度をもって入浴してください。他の温泉地のように、酒を飲んで遊ぶ場所ではありません」とお願いしている。

 毎朝3時か4時に起床し、ナラやクリのまきをくべながら約4時間かけて湧き水を沸かす。自らが30分ほど入浴し、その後は午後7時まで客を待つ。来なければ夕食を取って午後8時ごろ寝床に入る。

 「毎日がその繰り返し。忙しい、忙しい」

 新緑の山々の間を、涼やかな風と笑い声が駆け抜ける。(三浦英之)

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