能登半島地震から6月1日で5カ月となる。小学校の体育館や公民館などの1次避難所で暮らす人の数は、ピーク時の3万4千人超から1623人まで減った。一方で、行政から姿が見えにくく、支援の届きにくい「見えない避難者」の存在に懸念が広がっている。

 黒瓦の屋根。時代を感じさせる濃茶の板張りの壁。奥能登らしい落ち着いた色合いの山里では、ほとんどの家の屋根や壁に貼り付けられたブルーシートの、鮮やかすぎる青色が目立つ。

 石川県珠洲市三崎町。道は波打ち、ところどころで砂利がむき出しになっている。

 集落の中に、小さな煙突の突き出たトタン屋根の小屋がある。

 元大工の矢敷(やしき)昭八さん(76)はここで、妻のとよ子さん(71)と2人で暮らす。小屋は元日まで、車3台を止める車庫だった。

 内側の壁は断熱材がむき出しになっている。冬の寒さを和らげようと、矢敷さんが元大工の腕を生かして貼り付けたものだ。

 かつて軽ワゴン車を止めていた辺りに、倒壊した家から運び入れた薪ストーブを置いた。煙突も取り付け、板張りの小部屋も作って寝室にした。

 長男夫婦と小学生の孫2人と計6人で同居していた自宅は、元日の能登半島地震で全壊した。

 矢敷さんは前日の大みそかから脳梗塞(こうそく)で入院中だった。残る5人は人があふれているであろう避難所を避け、1週間ほど車中泊を続けた。

 長男ら4人は「みなし仮設住宅」となる石川県南部のアパートに入居した。矢敷さんは1週間ほどで退院し、1月下旬、とよ子さんと一緒に、住むことのできない自宅に戻ってきた。

 「こんな田舎の人間が、都会に行って転がっとれんて。退屈で。ここにおれば、うちのまわりの草刈りでも、何でもできる」

 寒さに脅かされた季節は過ぎ、様子を見に来た看護師に最近、熱中症に注意するように言われた。脳梗塞の影響か、「疲れが早くて、前のようには動かれん」と言いながら、板張りの壁をくりぬいて風が通る窓を作った。

 倒壊した自宅の納屋部分に筋交いを入れ、なんとか住めないかと毎日少しずつ修繕を続ける。

 生活を立て直すまで、せめて近くの仮設住宅に住めればと周囲は心配する。

 だが、地震前に一緒に住んでいた長男たちが「みなし仮設」に入居したため、矢敷さん夫妻は制度上、地元の仮設住宅に申し込むことができない。1軒の倒壊した家に対して入居できる仮設住宅は、1軒だけだからだ。

 市は発災以降、在宅避難者に夕食1食分の弁当を配ってきたが、スーパーなどが営業を再開したとして5月15日に原則取りやめた。「弁当があれば、母ちゃんが助かったんだけどな」と矢敷さんはこぼす。

 畑の野菜と昨年つくった米で炊事し、スーパーで買うものは最小限で済ませる。

 5月中旬、屋外にある農作業用の水栓からようやく水が出るようになったが、砂が混じっているように感じる。使った後の食器は、油汚れを拭き取り、煮沸した湯で消毒している。

 「こんな年で、こんな目に遭うと思わんかった」。とよ子さんはぽつりと漏らした。

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 発災直後から現地で支援を続けるNPO法人「ピースウィンズ・ジャパン」の橋本笙子さん(59)は言う。「この災害で問われているのは、人間の尊厳です」

 住む人が半分ほどになった集落の小屋で、夫婦は地震から5カ月を迎える。(上田真由美)

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