河北省の海辺にある有名な保養地、北戴河に現役指導部メンバーと長老らが集い、重要問題を巡って意見交換する「北戴河会議」が始まった。その直前、生活の隅々までインターネット利用が浸透するIT(情報技術)大国、中国に大騒動が持ち上がり、不穏な空気が漂っている。

中国で警察組織を統括する公安省と、国家インターネット情報弁公室が、国民のネット利用に際し、国として統一発行する「個人背番号」によって認証を行う新たな制度の設計案を発表したのだ。

「ネット番号・ネット認証」制度の根幹をなす個人背番号は、実名の代わりに用いるIDである。個別プロバイダーへの個人情報登録を極力避け、国家の統一管理によってプライバシーを保護する安全対策とされる。

案を巡っては7月下旬から1カ月間にわたって公式アカウントで「パブリックコメント」を募る形式をとった。施行日は、まだ決まっていない。だが、共産党・政府一体で提出した案だけに、必ず実施される。その根幹を揺るがすような問題点の指摘が許されないのは明らかだ。

党・政府側と一定の距離を置く有識者、ネット市民は、それを見透かすように別の形で批判、反対論を続々、発表し始めた。「パブリックコメント募集は形式にすぎない」とみているのだ。

ポイントは、ネット上の言論統制が一段と進み、鬱積した国民の不満が別の先鋭的な形で爆発しかねない、という社会的リスクの指摘である。中国の公的シンクタンクの研究員、大学教授らの仮名による真摯な意見表明も目立つ。

注目したいのは、習近平(シー・ジンピン)政権が数年もの長い間、実施した厳しすぎる新型コロナウイルス感染症対策との類似を指摘する鋭い批判だ。この苦い記憶は、中国国民の間に強く残っている。

当時はスマートフォンに強制的に入れさせたアプリ「健康宝」によって、個人の移動の自由が完全に奪われた。そして学生や失業した若者らが不満を爆発させ、共産党総書記、国家主席の習に退陣まで求める「白紙運動」と呼ばれる街頭デモ活動につながった。

批判、反対の意見表明が特に目立つのは、中国で影響力の大きいSNS上だ。そうした小気味よい当局批判を、賛同者が次々とネット上に拡散し、話題となっていった。中国では異例だ。「政権の安全」を何より重視しなければならない当局としては想定以上の由々しき事態である。

鋭い批判をネットから削除

痛いところを突かれた当局側は異例の手段に出た。ネット上から「問題あり」と見なす反対論を軒並み削除している。既に消された鋭い批判を含む投稿を検索してみると、見出しは一部だけ残っている。だが、クリックして中身を読みに行くと、いきなり以下のように表示される。

「規則違反により閲覧できない――この内容には中国インターネット安全法違反という苦情が出ている」

中国では、党・政府に物を言う文章などは瞬時に削除されるケースが多い。いち早く探し出して、その内容をコピーし、保存しなければ、詳細を把握できない。時間との闘いである。それでも、批判、反対論はひっきりなしに投稿される。攻防は激しい。

ネット上から削除された文章を検索すると「規定違反により閲覧できない」という表示が出る

一方、こうした当局による問答無用の意見削除という行動は、ネット市民に対する個人背番号の付与という新制度の本質に大きく関わる問題行為でもある。「衣の下から鎧(よろい)をのぞかせる」とは、このことだ。

識者やネット市民による批判の対象部分はいくつかある。まず、ネット市民によるID取得は「任意」と強調されている。だが、当局の意を受けた事業者側が徐々にIDなしの利用に応じなくなる可能性は強い。最後はID未取得者がネット空間から排除されるに違いない。そういう懸念だ。

別の実務的な問題もある。従来、ネット利用者の個人情報は、当該ネットを運営する事業者だけが把握しているのが原則だった。それでも公安当局が要請すれば、事業者は法規に従って個人情報を提供する義務があった。だが、新制度では、バラバラだった全ての個人情報を国側が完全に統合できる。人工知能(AI)も駆使されるだろう。

この制度が浸透すれば、万一、事故で統合された個人情報が部外に流出した場合、被害がより深刻になる。極めて重要な指摘である。確かにそうした深刻な流出事故が外国で発生しているのだ。

さらに、当局は最終的にオンライン上の全ての情報を厳格に管理・監視するためネット市民の個人背番号を最大限、利用するに違いない、という見方が出ている。ジョージ・オーウェルがあらわした名著「1984」の世界の実現だ。

「個人情報の保護は名目にすぎず、ネット上に発表される個人の言論(の自由)の制限が目的だ」。SNS上から削除されてしまった「新手の言論統制の手段」と断ずる意見は無視できない。

湖南の歩道橋に習批判横断幕

これらの問題点を考えるうえで興味深い事件が、制度案が発表された7月26日の直後に明らかになった。場所は中国の中央部に位置する湖南省の街。習個人を鋭く批判する横断幕が、歩道橋に掲げられたのだ。

Xに投稿された、中国湖南省新化県の歩道橋に習近平国家主席を批判する横断幕が掲げられたとされる動画の一場面=共同

X(旧ツイッター)に投稿された動画では、横断幕に「独裁、国賊の習近平を罷免」などと書かれている。「自由を、民主を、選挙を」と叫ぶスピーカーからの音声も流された。

2022年10月、中国共産党大会の開幕前には、北京で似た事件があった。「四通橋」と呼ばれる高架橋に、習への権力集中などを批判する横断幕が掲げられた一幕だ。厳戒態勢だった首都で起きた事件だっただけに、当局に衝撃を与えた。

その後、北京の現場付近には、長い間、警察車両が数台、常時待機し、厳重な警戒態勢が敷かれた。そして北京の主要な道路にかかる歩道橋の上には、習批判の横断幕が掲げられるのを防ぐため、昼夜を問わず警備員を配置する措置まで取られた。

だが、中国全土の中小地方都市にまで、北京に似た厳重な警戒態勢を敷くのは難しい。どこで発生するのか、皆目、見当がつかないのだから。湖南省で横断幕が掲げられた一件は、警備の隙を突くものだった。

22年、習氏批判の横断幕が掲げられた後、厳しい警備態勢が続いた北京市内の歩道橋

注目すべきは、湖南省の事件が「白紙運動」に関係があるとみられる点だ。コロナ対策の行動制限を解除するよう強く要求する若者ら中心の自発的な運動は、中国の多くの都市に一気に広がった。

運動の爆発力に驚いた習政権は、すぐに封鎖を解除する。運動は成功した。だが、その白紙運動に参加した若者、学生らは後に当局に呼び出され、厳しい注意を受けたり、一時拘束されたりした。

目下、当局は目視と街に設置したカメラで監視するとともに、各地の活動がネット言論と連動して広がらないか警戒している。ただ、若年層の失業率の急上昇など社会不安の火種が多いなかで、ある種の民意の発露を全て阻止するのは困難だ。

「北戴河会議」開幕の号砲

ここには習側近らのメンツもかかっている。現在、警察組織を束ねる責任者である公安相は、王小洪。副首相級の国務委員でもある。習が1980年代から福建省で働いていた時代に知り合った警察関係者だ。

そして共産党内序列5位の蔡奇(ツァイ・チー)も、同じく習の福建省時代からの知り合いである。最高指導部メンバーの政治局常務委員で、北京・中南海の事務を仕切る党中央弁公庁主任まで兼ねる万能のポストに座っている。

蔡奇は党側で国家安全問題を統括しており、王小洪にとっては上司に当たる。つまり、蔡奇と王小洪という最強の「福建閥」習側近コンビが関与しているのが、ネット市民に対する個人背番号制の導入計画だ。頓挫は許されない。

全人代開幕式に出席した蔡奇氏(北京、3月5日)

その蔡奇は8月3日、北戴河に登場した。習に代わって当地に集まった専門家らに会い、慰労する恒例の会合である。この「儀式」報道は、北戴河会議が始まったことを意味する。

最高指導部メンバーらは、しばらくの間、北戴河にこもり、公の場に姿を現さない。今回、北戴河では、7月の党中央委員会第3回全体会議(3中全会)の結果を受けて、中国の政治・経済を巡る大方針が議論される。

問題は、国家安全、経済社会に絡むネット市民に対する個人背番号制の導入問題の行方が、この北戴河会議での大きな議論の方向性とも微妙に関係している点だ。一連の秘密会合の内容が公開されることはない。一端がわずかに明らかになるのさえ相当先になる。だが、その中身が世界の政治・経済をも左右するのは間違いない。

(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。

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