乗客の死亡事故はゼロ
東海道新幹線が開業した1964(昭和39)年10月1日から今日に至るまで、フル規格の新幹線全線で列車の脱線や衝突による乗客の死亡事故は1件も起きていない。新幹線には安全を守るためのさまざまなシステムが開業当時から採用され、威力を発揮してきたからだ。
安全を守るシステムのなかで最も重要な役割を果たしているのはATC(Automatic Train Control device: 自動列車制御装置)である。前方の列車や停車すべき駅に近づくと、ATCは列車のスピードを自動的に下げていく。運転士は駅の所定の位置に止めるために微調整するだけでよい。おかげで新幹線では列車同士の衝突事故の可能性は原理上ゼロとなり、現実に今も事故ゼロの記録を続けている。
ATCは列車の安定した運行にも寄与した。新幹線は晴れた日中といった、前方の見通しの良い時だけに運転されるのではない。ATCのおかげで悪天候、夜間でも運転士は安心して時速200キロを超えるスピードを出せるようになったのである。
鉄道の安全性が高められた今日でも、踏切で列車が自動車などと衝突する事故は後を絶たない。フル規格の新幹線では営業列車が走行する線路はすべて立体交差とし、踏切事故の起きる可能性を根絶した。線路を跨ぐ橋などから自動車などが転落してもすぐに列車を停止させられる仕組みも導入されている。
欧米の鉄道では衝突安全性能を備えることが必須とされ、新幹線のような時速200キロを超える高速鉄道用の車両を導入する際にも、厳格な衝突安全基準を満たすことが求められる。ところが、新幹線の車両には衝突安全性に関する基準は存在しない。ATCといった安全を守るシステムであるとか全線立体交差という構造により、衝突事故は起こり得ないとの考えに基づいて設計されているからだ。
東京の新幹線の総合指令室=1977年6月3日(時事)
新幹線は長距離を短時間で移動してしまう。「新幹線以前」の鉄道のように列車運行の監視、指示を各駅に任せると、負担が大きく、安全性や安定運行に支障を来す恐れがあった。列車の運行を1カ所で集中的に監視、指示し、一元的にポイントを変換、進路を設定できれば都合が良い。こうした発想から生まれたのが、CTC(Centralized Traffic Control device: 列車集中制御装置)で、東海道新幹線では開業時から採用され、現在は広く一般の鉄道路線にも普及している。
東海道新幹線の建設に当たって、当時の国鉄は深刻な予算不足に悩まされており、CTCの採用を見送り、列車の運行の監視、指示は各駅が分散して担う案もあった。自然災害が多く、運行停止が頻繁に起こる日本の事情を鑑みて、円滑な列車運行には必要だとして、国鉄の十河信二総裁(当時)が他の予算を削ってでもCTCを採用するよう命じたとの逸話が残っている。
人の流れ、生活に大きな変化
数々の安全対策により、新幹線は大都市の通勤電車と同じような「日常性」を得ることができた。航空機とは異なり新幹線では、出発前に事故など緊急時の対応についての説明はなく、シートベルトを装着する必要もない。新幹線に乗るからといって、わざわざ旅行保険に加入する人も皆無であろう。航空機に比べれば移動に時間を要するものの、手軽に利用できるために新幹線は日本国内の人の動きを大きく変えてきた。
首都圏と関西圏との間での人の行き来は劇的に変化した。鉄道による東京―大阪間の移動所用時間は、東海道新幹線の開業前までは最短で6時間30分だったが、開業によって4時間に短縮された。東海道新幹線開業の翌年、1965(昭和40)年には3時間10分となり、所要時間は半分以下になった。
新幹線の誕生は、潜在的な移動の需要を掘り起こす効果もあった。東海道新幹線の開業前に東京駅と大阪駅とを直接結ぶ日中の特急列車の本数は、1日当たり7往復14本だったが、開業後には30往復60本へと一気に増やされた。戦後の高度成長期の真っただ中にあって、首都圏と関西圏とを往来する需要が劇的に増えていたこともあろうが、新幹線が長距離移動に対する人々の「垣根」を取り外したとも推察できる。
世の中の身近なものにも変化がもたらされた。かつてはローカルな人気にとどまっていた上方の演芸、関西圏のお笑いタレントを「全国区」にしたことは、その一つだ。あるお笑いの大御所は「開業前の人気は、あくまで関西圏が中心だった」と振り返る。
新幹線を利用することによって、関西拠点のタレントでも、全国向けに番組を発信する東京のテレビ・キー局での仕事をしやすくなった。先の大御所によると、新大阪駅と東京駅との間を1日に2往復した日もあったという。都心から離れた空港へ行き、搭乗手続きや保安検査などに時間がかかる航空機では、このような芸当は不可能であろう。大げさだが、「新幹線が日本のお笑い文化を変えた」とも言える。
次にプロ野球である。東海道新幹線の開業は全国を巡る選手らの負担を大幅に軽減した。開業の恩恵を受けなかった最後の年、1964年のシーズン日程を見てみよう。基本的に土曜日と日曜日とに3試合、火曜日~木曜日に3試合が開催され、月曜日と金曜日とが移動日に充てられていた。日曜日は1日2試合のダブルヘッダー、週末の2日間で3試合をこなしていた。
開業後の65年シーズンは、日曜日のダブルヘッダーが大幅に削減され、代わりに金曜日にも試合が開催されるようになった。ダブルヘッダーは徐々に減らされ、70年代半ばにはほとんど見られなくなった。
プロ野球の日程の変更は、航空機の利用が次第に広まったことも要因の一つだろうが、当時の選手の多くがダブルヘッダーを負担に感じていたのは事実で、新幹線の利用が歓迎されたのは間違いない。
万博機に利用が拡大
最後に東海道新幹線が国家的イベントの成功に大いに貢献した話を紹介したい。1970(昭和45)年3月15日から同年9月13日まで、大阪・千里丘陵で開催された日本万博博覧会(以下万博)である。会期中に6422万人を集めた巨大イベントの成功は、充実した内容、関西の持っていたポテンシャルによるものだったことはもちろんだが、人々の大規模移動を可能にした新幹線も成功の一翼を担った。
万博を訪れる全国、特に首都圏の人たちの交通手段として活用されただけではない。世界に日本を発信した万博を機に、新幹線に乗ってみたいと考える人たちが、国内のみならず海外でも増えたのだ。
入場客でにぎわう万博の会場内とシンボルとなった太陽の塔=1970年、大阪府・千里丘陵(時事)
東海道新幹線を利用した万博入場者は70年8月にピークに達し、1日35万~37万人に上った。新型コロナ禍直前の東海道新幹線の利用者数が1日平均47万人であったことを考えると、いかに多かったかがわかる。当時、新幹線は「動くもう一つの万博パビリオン」と呼ばれた。万博を体験した人々はその思い出とともに、東海道新幹線での快適な旅を人々に伝え、万博以降は新幹線を利用することが当たり前となった。
新幹線がもたらした「交通革命」は、日本人の暮らしそのものを大きく変えたのである。
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