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勅使川原真衣さん=東京都中央区、小玉重隆撮影

Re:Ron連載「よりよい社会」と言うならば(第12回・最終回)

 よく行きつけのコーヒーチェーン店で原稿を書く。たいてい、空いていることが多いレジの真ん前の席に座る。

 この日は、はじめてレジに立つ新人を、先輩が接客後に逐一指導していた。「ここにドリンク置いて万一こぼれたら大変だよね? こっちに置いて」など、もっともな指摘が聞こえる。一方で、「『レシートお返しします』ってさっき言ったけど、レシートはこっちから渡すんだから『レシートです』にして」という指導も入る。たしかに。ちなみにその人はことばになかなかこだわる人だ。お客さんが「ブレンドコーヒーのアイス」と頼もうもんなら食い気味に「アイスはブレンドもアメリカンもなく、『アイスコーヒー』なんですが?」と返す。間違ってはいないのだが、見ていると、その返しにたじろぐ人も少なくない。

 ことばへのこだわり。

 もっと言えば、ことばの「正しさ」へのこだわり。

 これは面白いものだなぁと思う。もしかすると、似て非なる部分がありながら、ことばにうるさい、という意味では私もひとごとではないからかもしれない。

 というのも、「『よりよい社会』と言うならば」連載では口を酸っぱくして、「高い能力」「成長」「自立」「タイパ」「リスキリング」「ウェルビーイング」……などの一般的に“良し”とされていることばが、その本来もつ多義性をそぎ落とされ、単純化されたまま称揚されていないか?と訴えてきた。

 たとえば、人事コンサルタントならば「これからは『ウェルビーイング経営』ですよね」「やっぱり『リスキリング』ですよ」などと時流に乗って言っておけば、丸く収まることも多い。だがこの連載では意図をもって、「ウェルビーイングってそもそも何でしたっけ?」「リスキリングの最初の使われ方、登場の背景を踏まえていますか?」などと、ことばの多義性を開き直してきたつもりだ。

 さらになぜことばの多義性を解きほぐしたかといえば、周りを糾弾したいからでは毛頭ない。一元的な「正しさ」に閉じることが、多くの生きづらさを生み出しているとの思いから、開こう、開こうと試行錯誤してきた。冒頭の「アイスコーヒーって言わないとダメ!」とするような、ことばを収斂(しゅうれん)させる方向ではなく、「こうでないとダメ!」とか「これはすばらしい!」は本当か?を大前提としてきたわけだ。ものごとはそもそも多義的で複雑だとしたうえで、ことばが単純化し、釣られて社会が不寛容になっていくことへの危惧を示してきたのだ。

 そうして連載タイトルの「よりよい社会」なんてことばまでも、自明なようで案外、目指しているつもりがかえって、世のなかは悪くなっていやしないか?と大胆にも問わせてもらった。心地いいのはことばの響きだけになっていないか? しんどい人はしんどいまま、むしろ口を塞いでいないか?としつこく。連載でのことばを改めて使うならば、「分けて」、「分かった」気になることにもっと慎重であるべきではないか?という自戒を込めた。

 ここで改めて、お読みくださった皆さまに御礼申し上げたい。同時にこれはただの屁理屈(へりくつ)ではないと信じたい。

物事に一元的な「正しさ」はない

 余談だが、屁理屈といえば(というと怒られるかもしれないが)、ここ最近のとある「構文」を想起する。政治屋なのか政治家なのか、とか、理屈なのか屁理屈なのか、構文として“良い”のは石丸(伸二 )氏か(小泉)進次郎氏か、などについてここでコメントするつもりはないので安心してほしい。

 ただつくづく、二項対立的に良しあしを捉える思考や言論の癖というものの根強さを感じる。二元論はわかりやすい。何かと何かを対比的に評するやり口も、一見すると明晰(めいせき)な印象を受けやすい。

 しかし私は、物事に一元的な正しさがあると思っていない。光があれば影があり、それも含めてそのものであり、全体性なのだと思っている。何かと良しあしについて人は雄弁に語るが、理屈とも屁理屈とも言えない、単なるディベートの域を越えない。巨人の肩に乗るならば、スピノザが『エチカ』において、そのもの自体はどれも完璧であり、良しあしというのは組み合わせの問題だと語ったとおりである。ないしは、今年2月にRe:Ronが開いたトークイベント「Re:Ronカフェ」で対談させていただいた松本紹圭さんがおっしゃっていた、仏教の「無我」ともつながる。無我とは滅私せよ、という意味ではなく、自己はあくまで周りとの関係性によって立ち現れ、七変化するものである、との示唆は目からうろこが落ちた。

 だからと言って、なんでもあり!とも言ってはいない。「分けて」「分かった」気になり「分け合い」を決める社会原理は当然なくては困るのだが、その際に、いくばくかでも“本当にこの「分け方」でいいのか? この議論の仕方で全体性を語れているか?”と自問自答する躊躇(ためら)いを持ちたい、という話をしている。私たちが「わかりやすさ」や「分かる」ことを優先させた結果、今、どんなことがあたり一面で起きているだろうか?と一度深呼吸しながら振り返ることが欠かせない。

 言い換えれば、どうせ「分ける」のなら、ちまちまと理屈に屁をつけたりとったりするのではなく、眼下のさまざまな事象の整理のために行いたい。たとえばだが、視界がクリアだ、と一口に言っても、雨天に車のワイパーを使うことで視界がクリアになったのか? はたまた、いつの間にか雨がやんだのか?などの状況整理は、社会の公正を考えるうえで不可欠だ。変えられるもの、変えられないものなどを「分け」ないままに、成否を個人に、それも「能力」に還元するようなやり方はただの「分断」の助長である。

言い淀み、うなりながら、書いていく

 躊躇(ちゅうちょ)、逡巡、迷走、落胆、葛藤……これらは忌避され、「わかりやすさ」やタイパ、生産性……が礼賛される今こそ、私はこの〈躊躇うことを躊躇わない〉ことの実践者でありたい。

 立て板に水のごとく、あーでもないこーでもないと、ことばの定義にこだわっている風に自分語りをするほうが、わかりやすく「主体性」や「リーダーシップ」の発揮を見せつけることができる社会。その中にあってわざわざ立ち止まって考え、言い淀(よど)みながら思いをことばにするなんて、割に合わないと思うかもしれない。

 その気持ちは痛いほどわかる。わかるからこそ、私はこれからも言い淀みながら、たくさんの人とおしゃべりし、うなりながら書いていこうと思う。

 先日登壇したあるシンポジウムで、文化人類学者で九州大学教授の飯嶋秀治さんが、米国の心理学者カール・ロジャーズを引きながら、「言い淀み」の価値についてお話しされていて、誠に留飲の下がる思いだった。心の奥底をのぞきながら、ことばにならないことば、その人の琴線を拾っていくこと。これは流暢(りゅうちょう)でうまいことそれっぽさを演出する話術では到底触れることができない。触れられなければ、ともにヴァイヴレートする(響き合う)こともできない。

 そんなわけだから、私からの弁舌はもういいんじゃないかと思う。この先もRe:Ronにおいて、いろんな人がいろんな立場の、必ずしも上手ではない表現であっても、広く届け合うことに期待する。間違っても新聞は「正しさ」を流布する場ではない。言語優位な雄弁家たちに「正しさ」を議論させるのも違う。

 うまく注目を集めるなんて術(すべ)は持たずとも、実直に、日々社会を形づくってくれている人たちから教わることが私にはまだまだある。さて、組織開発の現場に戻るとする。(組織開発コンサルタント・勅使川原真衣=寄稿)

  • 【バックナンバーはこちら】勅使川原真衣さんのRe:Ron連載『「よりよい社会」と言うならば』

勅使川原真衣さんのRe:Ron連載『「よりよい社会」と言うならば』は今回で終わります。

てしがわら・まい 1982年、横浜市生まれ。慶応大学環境情報学部卒業、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。BCG(ボストン コンサルティング グループ)などの外資コンサルティングファーム勤務を経て2017年、組織開発コンサルタントとして独立。企業や病院、学校などを支援する。2児の母。20年から乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社、22年)、『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社、24年)、『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』(大和書房、7月20日発売)がある。24年4月号から教育開発研究所の月刊誌『教職研修』で「みんなの職員室」を、24年8月号からPHP研究所の論壇誌『Voice』の「ニッポン新潮流」で連載中。X(https://twitter.com/maigawarateshi

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「よりよい社会」と言うならば 勅使川原真衣

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