日本被団協の3人の代表委員の被ばく体験(講演録などを基に構成)

田中熙巳(たなか・てるみ)


日本外国特派員協会での記者会見で(2024年10月22日撮影、時事)

1932年4月生まれ、被爆当時中学1年生、13歳。被団協役員として最高齢の92歳だが、当時の様子を鮮明に記憶する最後の世代の責務として、精力的に自らの体験を伝え続けている。

満州(中国東北部)で生まれた。軍人だった父親が病死したため、5歳で一家で日本に引き揚げ、親族を頼って長崎市で暮らすようになった。爆心地から約3.2キロの自宅で被爆。親族らが住んでいた浦上地区に探しに行く途上、焦土と化し、数えきれないほどの死体が転がり、全身にやけどを負いながら手当も受けられずにうずくまる多くの人を目にした。叔母といとこは炭がらのようになって自宅跡に転がっているを発見。その後、祖父、叔父も亡くなり、5人の親族を原爆で失った。極貧の家計を支えるため、中学生でもできる仕事を探して必死で働いた。

東北大学の助手として勤務していた1970年頃から被爆者運動に関わるようになる。自身は原爆による深刻な健康被害を受けていないことから、当初は「支援者」的なスタンスだったが、原爆の悲惨さが世界に伝わっていない現況を変えなければならないと国際会議などにも積極的に参加、ニューヨークの国連本部での原爆展の開催を実現した。20年あまり被団協の事務局長を務め、2017年代表委員に就任。

田中重光(たなか・しげみつ)

4歳の時に爆心地から6キロの長崎県時津町で被爆。祖父と弟と庭先で遊んでいたときにあたり一面が真っ白に光り、裏山に避難する途中、大きな爆発音と強烈な爆風に襲われた。原爆投下から3日後に爆心地に知人の無事を確かめにいった母親は肝臓や甲状腺の障害で入退院を繰り返すようになり、そのことで母に暴力をふるった父も肝臓がんで亡くなった。

箕牧智之(みまき・としゆき)

被爆当時3歳。1945年3月の東京大空襲を受けて、5月に父の故郷である広島に疎開。原爆が投下された時は、爆心地から約17キロ離れた旧飯室村(現在の広島市安佐北区)の自宅で遊んでいた。市内で働いていた父が戻らないのを心配した母に連れられ、翌日、翌々日と爆心地近くまで探しに行き被爆。

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