目次

  • 演説で伝えたいことは

  • “人々の心に原爆の悲惨さ 非人道的なものが落ちていない”

【ライブ予定】被団協代表団 ノーベル平和賞授賞式前に会見

《インタビュー全文》

演説で伝えたいことは

インタビューに応じる日本被団協 田中熙巳代表委員(92)

Q.授賞式で行う演説について、どのような内容を考えているのでしょうか。

A.具体的にはやはり被爆者の運動を、短い時間だけれども皆さんはご存じないと思うので、それを紹介しようかなとは思っていたんですね。でも(演説の時間は)20分ですからね。かえってしゃべることで混乱を招かないかなと心配したりして悩んでいるところです。もう草稿を作れと言われてから1週間以上経っているんですけども、文章にはちゃんとできていない。

Q.頭の中ではどれぐらいできあがっているのでしょうか。

A.頭の中ではもう毎晩夢の中でも考えるんですけど、起きて書いていくとそう簡単にするすると出てこないし、書いているとやっぱりで構造がちょっと変わったりというのもありますのでね。

ノルウェーのオスローでICANに参加するNGOと交流(2017年)

Q.スピーチの中で特にこれだけは伝えておきたいことはなんでしょうか。

A.やはり(選考委員会の)委員長は調べてご存じだと思うのですが、被爆者が「核のタブー」を作り上げてきたというふうに言ってますけども、じゃあどういうことをやってきたのかっていうのはご存じないわけだから、被団協がどういう国際活動をやってきたか、証言を世界に向かってどうやって発信してきたかということは、できるだけわかりやすく説明をしておきたいなということは第一に思っています。

もう1つは今なぜ日本被団協をノーベル平和賞にということです。(2017年にノーベル平和賞を受賞した)ICANの時はひと言も出てませんから、むしろおかしいとわたしたちは思っていたぐらいなので。それから7年しかまだたっていないのに、被団協だけを取り出して賞を与えるというのはどういう背景があったのかということ、どういった役割が与えられているのかということを考えて、そのことについても触れないといけないかなと思っています。

“人々の心に原爆の悲惨さ 非人道的なものが落ちていない”

亡くなった被爆者の遺影

Q.被爆者の高齢化が進む中で、亡くなった方々を思い出すことはありますか。

A.私は90代ですから、70代から80代の頃がやっぱり一番元気だったかなと。外国にもしょっちゅう行ったりしていましたが、その時には仲間たちがいっぱいいたわけですよ。それがもうほとんどいないと言っていいぐらいだから。今の80代、(被爆当時は)まだよく分かっていなかった人たちが今はもう中心になってやってもらっているので、そういう意味では1人残された私の任務は重いなと。私が授賞式でしゃべらなくても本当は若い人がしゃべるのが一番いいんですけれども、全体が分かるということからすればもう私しかいないのかなと思っています。

それともう1つ、(選考委員会の)委員長が言っていますが、もう被爆者がやがていなくなる時が来る、そして若い人たちが今までやってきた証言を引き継いでいかなきゃいけない、その兆しというものはもう芽生えているみたいなことを言ってくれてるんですけども、そのことについて、どういう人たちに語り継いでいってほしいかということは、言っておこうかなとは思っています。

Q.被爆者運動をどのように継承していってほしいと考えているのでしょうか。

A.被爆を語る時に「原爆の非人道性」という言葉で言いますよね。国際人道法にも反すると。非人道性というのは私は本当に実態として皆さんの心に落ちていないんじゃないかと思うんです。だからいろいろしゃべってきてるけども、言葉としてしか入っていない。「ああ、非人道性ですよね」と言って終わっちゃって、自分が何もしなくていい、そこから何も出てこないという状況がやっぱり大勢だったと思う。だから被爆国の日本ですら政府に対して先頭に立って動かなくちゃいけないと、核兵器禁止条約ができた時には真っ先に批准して、みんなこれに従えとか言わないわけですよ。それはやっぱり国民がそういうふうに言わせていないということの敗因ではないかと。

私も国内でも頑張ってきているけども、とはいえまだ人々の心に原爆の悲惨さ、非人道的なものが落ちていないんだと思うのです。だからそれを改めてどういう伝え方をすれば、その人が核兵器を無くさなくてはいけないという行動をとれるきっかけを作れるだろうかというのを、少し探求していかなきゃいけないかなと思っています。

ましてや外国では(被爆の)話そのものをあまり聞いたことがない人が圧倒的に多いわけなので、核保有国の国民も自分の国が核兵器を持っているということを何とも思ってないし、使うということをほとんど何も考えていない。大統領が使うかもしれないと脅しても「そんなことは絶対言うべきではない」という国民の声が上がったとは聞かないですからね。

世界の国民が声を上げて、核兵器は使わないようになって持たないようになるというふうにいかないといけない、それはこれからの課題です。

考えが一変した自身の被爆体験

Q.人々の心の中に落とし込むために、自身の被爆体験をどのようにスピーチに盛り込むお考えですか。

A.私は爆心地から3.2キロの長崎市中川町というところで被爆してますけど、被爆だけだったらまだ非人道的だっていうのは自分でもよく分からなかったと思うんです。だけど私の伯母たちが記録に書いていますけど、(長崎市)浦上に疎開してたんです。にぎやかな街から過疎の建物が密集してない所に避難していたんですが、そこで結局原爆に遭って(伯母などの親族)5人が亡くなりました。5人の最期もそうですけれども、それを確認するまでに浦上で見た惨状から、戦争といえどもこういう殺し方をしてはいけないと思った。私は幼少期は軍人になろうと思って、戦争はあるもの、当然のことと思っていましたが、たとえ戦争といえども、こういう殺し方をしてはいけないんじゃないかということが、今も焼き付いています。

Q.これまでの考えが一変する出来事だったということでしょうか。

A.第一次世界大戦の頃から国際人道法があって、市民を目標にしてはいけないと定められていて、だから市民と同居してるような工場地帯とか軍事拠点は、しかるべき措置をして攻撃しろと言っていたのに、第二次世界大戦では日本の都市の市民を目標にして殺したでしょ。あの時からもうおかしくなってきているというふうには思ったんですけれども、原爆の場合は市民も何も全く区別なしですよね。これはもう動物も含めて一切を殺しますからね。そういうことはもう人がやることではないということです。日本の言葉でいえば「人でなし」というふうに感じました。そのように皆さんも感じてもらい、感じるだけでなく、そういうことをやらせないようにしないといけないなと思っています。

“被爆者がやってきたこと 知ってもらうチャンスに”

Q.スピーチはどういう形でまとめたいとお考えでしょうか。

A.とにかく70年間被爆者が一生懸命「核兵器はもう使っていけない、持っていてもいけない、廃絶すべきだ」ということを叫び続けてきたのに、現状はなかなか進展せず、こともあろうか超大国の大統領が核兵器を使うこともあると言って、隣国を侵攻する状態まで引き起こしている。それを我々はどうするんだということを、本当に真剣に考えないとだめだと訴えたい。

被爆者が(被爆してから)10年間は言えなかったけど、言えるようになってから80年近く証言してきたことを、もう1度、世界中の皆さんが振り返っていただいて、ただ言葉だけでなく言葉の奥にある現実、事実をしっかり受け止めて、そういうことを許してはいけないと伝わればいいかなと思っています。

Q.田中さんは2017年にICANがノーベル平和賞を受賞した時にも授賞式に出席されていますが、その時のことは思い出されますか。

A.ICANが受賞した時に日本被団協の1文字も出なかったので、ちょっと悔しいなと思ったんですけれども、選考委員会が被団協のことを知らないわけはないので、やっぱり名前を出せない事情があって被団協の名前を出してないのかなと思いました。しかし背景には日本被団協の役割が非常に大きいということは知ってるはずだと。だから「我々の運動が受賞したんだと思う」と被団協の中でみんなにそう言ってたわけですが、実際に招待されたので参加したんですけれども、その時も自分たちが受賞したような気持ちになって、あの時さえほとんどの被爆者が亡くなっていましたから、そういう人たちのことを思って、やっと核兵器禁止条約ができるところまできて、ノーベル賞をもらうところまできたよという思いで本当に涙が出たんです。

でも今回はその時とはちょっと違う印象ですね。やはり被爆者がやってきたことの中身を知ってもらうチャンスができた。草の根の証言活動がずっとあり、それが委員長が言っている「核のタブー」ということを作ったんです。

“被爆者ができなかったこと 受け継いで”

Q.スピーチの言葉を選ぶ時にどういうことを意識しているのですか。

A.言葉よりもやはり事実を見せる、感じさせるということに力を入れないといけないかなと。だからそれは目で見えるとか見て感じるとか音を入れるだとか、映像で見せるとか絵で見せるとか、そういうものは並行して証言をやっていかないと、なかなか心を動かすところまでいかないのかもしれないと思います。たとえば「非人道性」といっても、それがどういうことって一人一人に聞いてみて説明できるぐらいになっておいてもらわないと、やっぱりその人がほかの人に核兵器の非人道性と言っても、中身が伴わないだろうと思うんですよね。

アメリカのニューヨークで行われた反核デモ行進(1982年)

Q.演説では原爆によって何がもたらされたかを丁寧に説明したいとお考えでしょうか。

A.うん。被団協と一緒に活動している「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」がアーカイブスとして資料をいっぱい集めていますが、今は集めることに一生懸命になっているので、集めた資料をどう生かすかということから考えるとこれはチャンスだと思います。絵や写真、そして証言を数え切れないぐらい集めてきているわけだから、それを上手に編集したりして外に向かってそれを見てもらうという運動をこれからやっていかないといけない。それだったら被爆2世でも3世でも普通の人でもできるわけだから、被爆者ができなかったこと、やり通せなかったことを受け継いでもらえるかなと思っているので、そういう期待をしていますぐらいのことは最後に言っておきたい。

世界で高まる核の脅威 被団協の役割は

Q.受賞が決まったあとも世界では核の脅威が高まっていますが、こうした状況をどう見ているのでしょうか。

A.今回の受賞について外国からも称賛するメッセージがいっぱい来るんです。アメリカの下院議員も演説の中で日本被団協の受賞はすばらしいということを話しているということからすれば、やっぱり危機感を感じている人は非常に多いんだと思うんです。ただ残念ながらこれだけ文化が発達し、知性が豊かになってきたと思っている時代に、ロシアのプーチン大統領みたいな人が出てくることもあるし、アメリカのトランプ次期大統領や中国がどういう動きをするのか分からず、私が若い時とは違う感じがしますから。やっぱり絶えず注意はしていかないといけないなと。変わった人たちが指導者になっているので、ある意味危険性は一時期より高いと私は思ってます。

Q.そういった状況の中で受賞するということは、日本被団協に期待されている役割も大きいと考えていいのでしょうか。

A.そういう中で核兵器を使ってはいけない、持っちゃいけないということを言い続けてた人たちがいる、そしてそれは80年前の原爆を体験した人たちだということをもっともっと世界の人たちに知ってもらいたいです。そのことが「核のタブー」をさらに固めていく力になるんじゃないかと、またなってほしいなと思います。

Q.田中さんの演説が世界を変えるきっかけにもなるのではないでしょうか。

A.そうですね。20分で言わないといけないですし、周りの人たちも「歴史的文書になりますよ」と言うものですから、言われれば言われるほど緊張します。ただこれは私の訴えではなく日本被団協の訴えですから、そのことも考えて、みなさんの気持ちを表現しないといけないと思っています。

Q.当日は緊張されるでしょうか。

A.登壇したら意外と私は図々しくなるほうなんです。だから原稿がないほうがむしろいいくらいで、原稿があると原稿から外れてないかって緊張しますからね。

田中熙巳 代表委員とは

田中熙巳さんは、日本被団協の役員の中で最高齢の92歳です。

13歳だった1945年8月9日、長崎市に原爆が投下され、爆心地から3キロあまり離れた自宅にいた田中さんに大きなけがはありませんでしたが、爆心地近くにいた伯母や伯父など5人の親族を亡くしました。

原爆投下の3日後、伯母たちの安否を確認するため爆心地近くを訪れとき、多くの遺体と、救援もないまま痛みに苦しみ亡くなっていく人たちを見て、このような惨状は二度と起こしてはいけないと強く感じたといいます。

大学を卒業後、工学系の研究に取り組むかたわら被爆者運動に参加し、日本被団協の事務局長を20年にわたって務めました。

2016年に当時のアメリカのオバマ大統領が現職の大統領として初めて広島市を訪れた際は、平和公園での献花に立ち会いました。

その翌年、代表委員に就任したあとも国内外で核兵器の廃絶を訴えたり、広島や長崎で被爆した人たちの原爆症の認定をめぐって基準の見直しを政府に求めるなど、90歳を超えても精力的に活動を続けています。

ノーベル平和賞の受賞が決定した際には「核兵器は、絶対に使われてはいけない。被爆者は高齢化しても若い世代が運動を引き継いで大きな声で訴え続けてほしい」と話していました。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。