サッカーJ1のサンフレッチェ広島は8日、アウェーでガンバ大阪に1―3で敗れ、逆転優勝はかなわず2位に終わった。今年、新たな本拠地「エディオンピースウイング広島」が広島市中心部に開業した。新スタジアムを駆けた選手たちを、特別な思いで見つめた関係者がいた。
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広島の初代総監督を務めた今西和男さん(83)。
1945年8月6日朝、当時4歳だった今西さんは、爆心地から約1.6キロ離れた広島市二葉の里(現・東区)で光線を浴びた。左ひざから下には今もケロイドが残る。
サッカーを本格的に始めたのは高校2年のころ。左足を自由に動かせず、ボールをまっすぐ蹴れない時期もあった。だが、足の速さや負けん気の強さを買われ、1963年から広島の前身である東洋工業のディフェンスとして活躍。日本代表にも選ばれた。
サッカーは、平和について新たな気づきを与えてくれたという。
「共通のルールで戦う中で互いを知り、認め合う。プレーを通じて、相手も同じ人間なんだと気づくきっかけになった。サッカーをやっていて、よかったなと思います」
今年2月、爆心地のすぐ近くに広島の新しいスタジアムがオープンし、「平和の翼」と英語で名付けられた。施設整備には、市民などから70億円を超える寄付が集まった。
こけら落としのセレモニーにも駆けつけた今西さんは「日本のサッカーが発展して、立派なスタジアムができた」と言う。79年の時をへて大きく変わった街中を、多くの訪日客が行き交う。「訪れた海外の人たちに、ここが被爆した広島の街だと知って考えてもらえる。いいことだと思います」
今年、被爆体験の証言活動などを続けてきた日本原水爆被害者団体協議会のノーベル平和賞受賞が決まった。今西さんは「これからも続けていただきたい。私が経験したことは、二度と世界で起きてほしくない」と語気を強めた。
毎年8月6日、広島の選手は黙禱(もくとう)し、犠牲になった人々を思う。そんな選手たちを、地元広島は応援し続けてきた。
J1優勝が決まる最終節の8日、ピースウイングには約5800人のサポーターが駆けつけ、大型ビジョンで試合中継を見守った。広島は終了間際に1点を返したが1―3と及ばず、結果はリーグ2位。自宅でテレビ中継を見た今西さんは「残念ですね。でも、終わったことはしょうがない。今回の経験をバネに来季も頑張ってほしい」と語った。
「今のサンフレが強くなれたのは、広島を盛り上げたいという県民の応援のおかげ。それに応えるために100%の力を発揮して、これからも歴史を積み重ねてもらいたい」
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