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不発弾の「自然爆発」少なくとも全国で20件発生 業界団体
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大分市で起きた爆発は
不発弾の「自然爆発」少なくとも全国で20件発生 業界団体
不発弾の探査などを行う会社で作る「磁気探査業協会」は、過去の報道などを基に地中に埋まる不発弾などが外から力がかからない状態で突然爆発する「自然爆発」の事例を調べました。
その結果、太平洋戦争後に不発弾が自然爆発したとみられる事例は確認できただけでもこれまでに全国で20件起きていたということです。
年代順では
▽1940年代に東京都で4件
▽1960年代に東京都で2件、群馬県、埼玉県、大分県、宮崎県で1件
▽1970年代に宮崎県で2件、群馬県と東京都で1件
▽1980年代に東京都と沖縄県で1件
▽1990年代に大分県で2件、鹿児島県と沖縄県で1件となっています。
このうち1992年に、大分市のバイク販売店と住宅を兼ねた建物の地下で起きた爆発では、建物が全壊したうえ、2人が重傷を負いました。
1996年に鹿児島県の当時の国分市で起きた爆発では地面に直径およそ5メートル、深さ1メートルほどの穴が開き、不発弾は250キロ爆弾2発だったとみられています。
また、20件以外では、2018年に鹿児島県の喜界島で地面に直径9メートル、深さ3メートルの穴が開く爆発が起き、近くの倉庫が半壊したということで、自然爆発の可能性があるということです。
大分市で起きた爆発は
JR大分駅から東に4キロメートル余り離れた大分市城東町では、32年前の1992年11月、地中に埋まっていた不発弾が突然、爆発し、店舗兼住宅の建物が全壊して、中にいた夫婦2人が大けがをしました。現場には直径10メートル、深さ1.5メートルほどの穴が開きました。
現場は国道沿いの店舗や住宅が建ち並ぶ地域の一角で、現在は、別の店舗の駐車場になっています。
当時、大分県の消防防災課の参事で対応にあたった油布正典さん(89)さんは現場に駆けつけたといいます。
油布さんは「ガス爆発が起きたのではないかということで警察と現場に行きました。しかし、ガスが漏れた形跡はなく、爆発の跡から切断面がぎざぎざした鉄の破片が出てきたのでひょっとしたら爆弾じゃないかと思いました」などと振り返りました。
爆発したのは重さ250キロのアメリカ製の不発弾でした。当時の新聞記事は付近の住民から周辺にも不発弾が埋まっていないか調べてほしいという要望があがっていると報じています。
その後も周辺一帯の調査は行われず、1年半後の1994年5月には城東町の爆発現場から2キロほど離れた大分市岩田町の川で再び、不発弾が爆発しました。
油布さんは「不発弾の痕跡があるわけでもないためどこにあるかわからず、広範囲に調べるにしても家も建っていて調査することはできませんでした。不発弾が埋まっている可能性がある場所を市や県といった自治体だけで調査するのは無理だと思います」と話していました。
大分市の現場近くに住む人は
現場近くに住む70代の男性によりますと、当時、突然、爆発音が聞こえ、大きな振動を感じたといいます。
男性は「『ドーン』という音が聞こえ、持っていた湯飲みに入っていたお茶が、自分の手にかかってしまうほどの振動だった。最初は、ガス爆発か工場爆発が起きたのではないかと思った」と話しました。
現場に向かうと、建物が大きく壊れ、火の手が上がるのも見えたということです。当初、爆発の原因はわからなかったものの、その後、不発弾による爆発だとわかり、驚いたといいます。
男性は「不発弾が戦後何十年もたってから爆発したということを聞いて、最初は信じられなかった。ただ、この地域は、戦時中、近くに海軍の工場があったため空襲があったと聞いている。自分自身も、田んぼに落ちた爆弾が爆発して穴ができ、その穴に雨水がたまってできる『爆弾池』を10か所ほど見た記憶がある。生々しい戦争の跡を現実に突きつけられた思いだった」と話していました。
また、近くに住む80代の男性によりますと、爆発があった土地にはかつて、住民の間で「爆弾穴」と呼ばれていた穴があり、投下された爆弾が不発弾として地中に残っている可能性が指摘されていたということです。
男性は「『爆弾穴があるから近づいてはだめだ』と言われていたので、自分自身も近づかないようにしていた」と話していました。
しかし、その後、道路や宅地の整備などが進む中で「爆弾穴」は埋められ、その存在を知る人は少なくなっていったということです。
男性は「宮崎空港で不発弾が爆発した映像を見て、当時のことを思い出した。宮崎空港の爆発が最後になればよいと思うが、いまだに不発弾の爆発が起きているということを国もしっかりと受け止めて対応を考えなければいけないのではないか」と話していました。
大分市への空襲は終戦のおよそ5か月前
総務省のホームページによりますと、第二次世界大戦中に大分市がアメリカ軍から初めて空襲を受けたのは終戦のおよそ5か月前です。
1945年3月18日の午前8時50分ごろアメリカ軍の爆撃機が大分市上空に現れ、当時の海軍航空隊の滑走路や宿舎などが空襲の被害に遭いました。大分市には海軍や鉄道の施設があり、アメリカ軍による空襲はその後も終戦の5日前まで繰り返され、合わせて749発の爆弾や9500発の焼い弾が投下され、177人が亡くなりました。
また、大分県立図書館によりますと、1992年と1994年に不発弾が爆発した大分市の現場近くには戦時中「第十二海軍航空廠高城発動機工場」があり、ここが空襲の標的になったという住民の証言が残っているということです。
ノルウェーの研究チーム「時間の経過で爆発リスク高まる可能性」
ノルウェーの研究チームは、2024年3月、イギリスの雑誌「ロイヤル・ソサエティ・オープン・サイエンス」に掲載した論文で、時間の経過にともなう不発弾の爆発のリスクはこれまでの想定より高くなる可能性があると発表しています。
研究チームが第2次世界大戦中に落とされノルウェーで発見された不発弾の爆薬を調べたところ「アマトール」という爆薬は時間の経過にともなって衝撃への感度が高くなり、偶発的な爆発のリスクが高まっている可能性があることがわかったということです。
リスクが高まる詳しいメカニズムは明らかになっていませんが、熱や湿気にさらされたことや地中で金属と接触したことが関係している可能性があるとしています。
研究チームのメンバーで、ノルウェー国防研究機構のゲイル・ノビック氏は取材に対し「これまでは時間とともに火薬が劣化し、感度が低下して危険性が低下するという仮定に基づいていたが、アマトールの研究では全く逆のことが起こりうると示された。今後のリスク分析では衝撃感受性が増大している可能性を考慮しなければならない」と話しました。
さらに、アマトールは第2次世界大戦中に広く使われた爆薬の一つで、日本でもアマトールを使った爆弾が投下された可能性が高いとしたうえで「使用された場所や兵器など詳しい分析をしなければ日本にあるものの爆発感度が上昇しているかどうか推定することはできないが、少なくとも適切な分析が行われるまでは、アマトールが使われた爆弾の爆発感度が高まっている可能性を考慮すべきではないか」と話しました。
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