与那覇さんは1945年(昭和20)、沖縄師範学校女子部に通っていた16歳の時に「ひめゆり学徒隊」として沖縄戦に動員され、旧日本軍の野戦病院壕(ごう)で負傷した兵士の看護などにあたりました。
ひと学年上の先輩は壕の入り口に落ちた爆弾で亡くなったほか、父親と姉2人は壕に入れてほしいと訪ねてきたものの助けられず戦場で命を落とすことになり、ずっと心を痛めてきたということです。
戦後、埼玉県に移り住んだ与那覇さんは、沖縄戦のことが本土で知られていないことにショックを受け、関東を中心に全国各地で講演活動を行い自身の体験を通して戦争の実態を伝えてきました。
また、ひめゆり東京同窓会の一員として糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」の建設に向けた募金活動などに尽力したほか、70代で沖縄に戻ってからは資料館の証言員として90歳まで講話を続けました。
資料館の普天間朝佳館長は「仲間から『百ちゃん』と呼ばれ慕われていました。資料館では穏やかで優しい口調ながらもみずからの重たい戦争の記憶を伝え、来館者が身じろぎもせずに聞いていたのが印象的でした」と、与那覇さんの死を悼んでいました。
与那覇さんは今月8日、老衰のため那覇市内の自宅で亡くなったということです。
96歳でした。
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