江戸の面影を宿す埼玉・川越周辺に「川越唐桟(とうざん)」という織物がある。しっとりした手触りと光沢は、木綿なのに絹そっくり。幕末の江戸っ子を魅了し、一度は生産が途絶えたが、今再び「手頃でおしゃれ」と新たな歴史を織りなす。英国の産業革命、そして地元の街並みとも関わりを持つ、その壮大な歩みとは──。

自身がデザインした川越唐桟が織られる様子を見学するシーラ・クリフさん=埼玉県飯能市で

◆家で洗濯可能、雨も平気 絹の着物より安価

 川越市の呉服店に、その織物はあった。「呉服笠間」は20種ほどの川越唐桟の反物や、布を使った小物を扱う。地元の小学生たちがデザインした柄もある。店主の笠間美寛さん(50)は「家で洗濯できて、雨も平気。絹の着物よりはるかに安く仕立てられるので、特に若い人たちに人気があります」。JR東日本の豪華寝台列車「四季島」の室内着にも採用された。  川越唐桟を誕生させたのは、18世紀英国の産業革命という。川越の地域誌を発行する藤井美登利さんは「紡績機械で大量生産された英国製の綿糸が日本に入ったのがきっかけ」と語る。

寝台列車用の室内着に使われた川越唐桟の生地を見せる笠間美寛さん=埼玉県川越市で

◆一度は生産が途絶えるも、昭和後期に復活

 舶来の綿織物を表す「唐桟」は高級品。布の薄さとしなやかさを生み出すには細い糸が必要で、国産の綿花では製造が難しかった。だが、1859年に横浜が開港し、英国から安価で細い紡績糸が到来。いち早く目を付けた川越の織物商が糸を買い、周辺の機屋(はたや)で織らせた反物を江戸へ運んで「川越唐桟」として売りだすと、たちまち大人気となった。川越周辺はもともと織物の産地で、高い技術が唐桟にも生きた。

蔵造りの街並みが今も残る=埼玉県川越市で

 藤井さんは「財をなした商人は明治期、防火対策で蔵造りの建物を次々に建てた。今も残る『小江戸』の街並みは、織物がルーツなんです」と説明する。  ところが、手織りだったため、昭和初期の機械化の波に押され、一度は生産が途絶えた。その後、昭和50年代になって、埼玉県入間市の織元「西村織物」の故・西村芳明さんが機械織りと手織りの両方で復元に尽力。地元では手織りで継承に取り組む市民団体も発足し、活動を始めた。

◆英国人の着物研究家が、斬新なデザインを考案

長崎の着物愛好家と交流し、川越唐桟グッズの販路も広がった=長崎市で(藤井美登利さん提供)

 今年、斬新なデザインの川越唐桟が発売された。考案したのは、藤井さんの友人で、着物研究家として知られる日本在住の英国人シーラ・クリフさん。鮮やかなライムグリーンに、青や赤紫のラインが美しい。  シーラさんは、母国と川越が着物を通じてつながっていたことに驚いたという。「米国の黒人奴隷が収穫した綿花が、私の生まれ育った英国のマンチェスターで糸に加工され、リバプールの港から日本へと運ばれた。産業革命の光と影を実感します」

川越唐桟を特集した地域誌「小江戸ものがたり」を手にする藤井美登利さん(左)とシーラさん=埼玉県川越市で

 この生地を織ったのは地元の織物会社「マルナカ」(同県飯能市)。世界的デザイナーからも信頼が厚い技術力を駆使した。中里明宏社長(53)は「歴史ある布の復元に携われるご縁があってうれしい」と笑顔を見せる。  藤井さんが発行する地域誌「小江戸ものがたり」は、最新号(第十六号)で川越唐桟を特集。著書「埼玉きもの散歩」(さきたま出版会)でも一端に触れられる。問い合わせは、川越むかし工房=電049(223)8587=へ。  ◆文と写真・出田阿生  ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 

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