◆幼いころは「毎日ここに来て泣いていた」
「お父さん、私が来ましたよ」。韓国から参加した全錫虎(チョンソッコ)さん(92)は韓国語で叫ぶと手で顔を覆った。全さんの視線の先には幅2.2メートル、高さ1.6メートルの坑口。中は海水がゆらぎ、奥には真っ暗な闇が続いていた。父を亡くした全錫虎さん(手前中央)は追悼式で坑口に向けて「アボジ(お父さん)」と叫んで涙をぬぐった=山口県宇部市で
長生炭鉱は1932年に本格操業を開始。1942年2月3日朝、坑口から約1.1キロ先の海底坑道が崩れ、136人の朝鮮出身者、47人の日本人が生き埋めになった。この日の式典に参加した遺族は韓日合わせ約20人。ほとんどが犠牲者の孫から下の世代だ。坑口前に設けられた祭壇の周りには、この日を見ることなく亡くなった韓国の遺族会の遺影も掲げられた。 全さんは数少ない子の世代の遺族の一人。事故当時家族で炭鉱の近くに暮らし、40歳だった父を亡くした。事故後に坑口はふさがれ、幼いころは「毎日ここに来て泣いていた」。報道陣の呼びかけに「胸が痛くて言葉が出ない」とかすれ気味の日本語で応じた。◆韓国でもまた「知られざる事故」
坑口を掘り起こした地元の市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の井上洋子共同代表(74)は「間に合って良かった」と目を潤ませた。遺骨発掘という大事業に乗り出したのには、韓国遺族会との二人三脚の歩みがあった。 刻む会の発足は1991年。当初の目標は、地域でもほとんど知られていなかったこの悲劇を後世に伝えるための慰霊碑の建立だった。 手がけたのは遺族捜し。戦前の殉職者名簿を基に韓国に118通の手紙を送った。宛先は戦前の住所で名前も日本人名。不安はあったが、17通の返信があった。井上さんは「無理やり連れて行かれたまま、私たちの手紙で初めて長生炭鉱で亡くなったことを知った遺族も多くいました」と振り返る。韓国でもまた「知られざる事故」だった。◆慰霊碑を立てると、厳しい言葉が待っていた
1992年には韓国の遺族会が結成され、以来事故のあった2月には毎年、遺族を招いて慰霊祭を開いてきた。開いた坑口を前に執り行われた長生炭鉱水没事故犠牲者の慰霊式典
募金で費用を賄い、慰霊碑が完成した2013年、宇部市のホテルで開いた祝賀会。「やり切った感で有頂天だった」井上さんたちは遺族から厳しい言葉を向けられた。「あなたたちはこれで運動をやめようとしていないか。自分たちは、遺骨をふるさとに持って帰るまであきらめない」 刻む会はその場で遺骨発掘を新しい目標に据えた。国との交渉も始めたが「発掘の実施は困難」と調査すら着手しようとしない姿勢に見切りをつけ、自ら調査に乗り出すことを決意。クラウドファンディングなどで1200万円を集めた。9月に開いた坑口は、戦後の閉山後、埋められうっそうとした雑木林になっていた所を、レーダー探査や当時の証言などを基に、刻む会が重機で掘り起こして見つけた。 なぜそこまで頑張るのか。「遺族の涙を見たからだ」と井上さん。「慰霊のたびに遺族の方は涙を流します。毎回、毎年。無念や苦労を知っていますから。それが私たちを支えてきたんだと思います」◆「私たちで骨の一片でも見つけ出す」
今月29日にはいよいよ水中探索が始まる。沖縄で戦没者の遺骨収集を続ける具志堅隆松さん(70)もこの日の式典に参加し、こう決意を述べた。「海中の遺骨はきれいに残っていることが多い。犠牲者は戦時の石炭増産で亡くなった。戦死でなくても戦争が原因で死んだ戦争死。私たちで骨の一片でも見つけ出して国を動かす力になりたい」坑口の前で亡くなった祖父について語る在日コリアンの藤井潔さん=山口県宇部市で
刻む会は今後の探索でわずかな遺骨でも見つけ、国の本格調査を促したいという。式典に参加した遺族からも願う声が上がった。 京都市の在日コリアンの藤井潔さん(75)は祖父とその弟を亡くした。「2人は朝鮮から無理やり連れて行かれた」と親戚から聞いた。「坑口発見のニュースを見てうれしかった。地元の人が頑張ってくれて。遺骨は掘り起こしてあげたい。やっぱり故郷に戻してやりたいですよ」 日本人の父を亡くした愛知県刈谷市の常西勝彦さん(82)は事故の4日後に生まれ「父の手を握ったことも抱いてもらったこともない」。坑口を見つめ「ここでおやじが死んだとは、まだ半信半疑。もし遺骨があれば、本当に会えたっていう気になるのかなあ」と話した。父を亡くし愛知県刈谷市から参加した常西勝彦さん
韓国遺族会の楊玄(ヤンヒョン)会長(76)は「遺骨は坑口のすぐそこにある」と確信する。「国や宗教やイデオロギーは関係ない。韓国人も日本人も犠牲者。遺族の元に遺骨が戻ってくるよう、なんとか助けてください」 ◇ ◇◆「大きな意義」近代史研究者の竹内康人さん
政府は長生炭鉱の事故犠牲者の遺骨について「埋没位置や深さが明らかでなく、発掘の実施は困難」として調査すらしてこなかった。朝鮮人強制労働を長年調査してきた近代史研究者の竹内康人さん(67)は「埋もれた坑口を開けて海に沈んだ遺骨を発掘することは不可能と思われてきた。市民の力でここまでやり遂げたことに大きな意義があり、遺族の思いに応える姿勢を世界に示した」と評価する。竹内康人さん=東京都新宿区で
朝鮮人労働者の多さから「朝鮮炭鉱」とも呼ばれた長生炭鉱。1939年から事故があった1942年までの間、朝鮮半島から動員された人数は1258人とされる。 日本政府は1939年以降、労務動員計画に基づき、集団での募集、官斡旋(あっせん)、徴用と形を変えながら、朝鮮人を日本の炭鉱や土木現場へ送り込んだ。その数は約80万人に及ぶ。竹内さんは、政府・企業が一体となって人を集め、自由な移動も禁じたとし、「植民地統治下の皇民化政策で名前や民族性を奪うとともに、総動員体制で労資一体・産業報国の下で働かせるという二重の強制性があった」と説く。 だが日本政府や行政側は「強制性」を否定する姿勢を示してきた。2021年の閣議決定で「強制連行」などの用語は適切でないとし、教科書からも記述が消えた。今年1〜2月には、群馬県の県立公園「群馬の森」にあった朝鮮人労働者の追悼碑が行政代執行で撤去。竹内さんはこうした動きを歴史否定ととらえ、「大日本帝国憲法下の人権侵害、植民地支配への反省が全くない。弱者や声なき人へのまなざしがなければ、権力サイドの歴史になってしまう」と危ぶむ。戦時下の強制動員を認めないことは、日本人の学徒動員などの強制性への否定にもなりうると強調する。 強制動員された朝鮮人の遺骨は今も国内各地に散在する。政府は2004年に韓国側の要請を受け、朝鮮人労働者の遺骨調査に着手。寺院などに1000超の遺骨があると確認したが、政府の手で返還されたことはない。 竹内さんは、政府に動員の責任があり、長生炭鉱での遺骨発掘に向け、自治体と共に関与すべきだと強調する。「遺骨が存在するのは、強制労働を巡る問題が未解決ということ。真相究明、遺骨返還を含む被害者の尊厳回復、次世代への歴史継承ができなければ真の解決にならない」(太田理英子)◆デスクメモ
9月に開かれた坑口。水に埋まった坑道の漆黒の闇の先に183人の遺骨が眠っていると思うと、早く見つけてあげたいと願わずにいられない。軍艦島がテーマのドラマも始まったが、危険が迫る炭鉱で作業した人々の恐れはいかばかりか。82年前の史実を心に刻む機会としたい。(恭)
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