◆今なら「帰ってきて正解だった」と思える
起伏の激しい道が続く。冬は積雪が4メートルにも達する中山間地域の旧山古志村を今月中旬に訪れると、基幹産業のニシキゴイの養殖場や即売所があちこちに。特産品や野菜を並べた直売所では、駐車場に他県ナンバーの車が目立っていた。 「今なら帰ってきて正解だったと思えるね。でも、避難当初は毎日が不安で仕方なかった」。生まれ育った山古志で暮らし、週末は直売所で働く青木恵子さん(82)は語った。 中越地震は2004年10月23日午後5時56分に発生した。震度6強の揺れに見舞われ、村民5人が犠牲になった山古志では、土砂崩れや住宅の倒壊、農地の損壊が多発したほか、約20万匹のニシキゴイが死滅し、道路が寸断されて集落は孤立した。地震から2日後、14の集落で暮らす約2100人の村民はヘリで避難。恵子さんも夫(故人)とともに、長岡市内の避難所や仮設住宅で過ごした。◆「どうしても山古志でしか生きていけない」
一時は市街地への転居も模索したが、「米作りが生きがいの夫が『山に戻る』とかたくなだった。昔かたぎの人だから。その声に押されました」。山古志にコンビニはなく、市中心部との行き来にはバスの乗り継ぎが必要になる。現在の人口は帰村時の約1500人から半減したが、それでも不便は感じない。「活気がなくなったことは寂しい。でも、ふるさとで暮らすのが何よりも幸せだから」土砂崩れで寸断された道路=2004年10月24日、新潟県山古志村(現長岡市)で、本社ヘリ「わかづる」から
全村避難後に行われたアンケートでは、村民の9割が同じように将来的な帰村を望んでいた。復興計画の策定に携わり、合併後の山古志支所長を務めた青木勝さん(74)は「住宅や生活基盤を復旧させるだけでは事足りない。集落機能そのものを取り戻すことを目指していた」と当時を述懐する。集落の各区長と意見交換しながら、県や国との協議を重ねた。「『山古志で生きたい』ではなく、『どうしても山古志でしか生きていけない』という村民がたくさんいた。その心に応えるのが行政の役割だと痛感した」◆阪神大震災の「失敗」に学んだ
帰村に備え、村民同士のつながりを維持しようと、8カ所の避難所に集落単位で村民を収容した。仮設住宅への入居時も集落ごとにまとまり、集会所や談話室を設け、家族世帯と高齢者の独居世帯が近接するように工夫した。「阪神大震災の失敗が念頭にあった」と青木さん。無計画な仮設住宅の割り当てが地域コミュニティーの崩壊、相次ぐ高齢者の孤独死を招いた反省を生かした。山古志の復興を振り返る青木勝さん=15日、新潟県長岡市山古志で
当時は認められていなかった仮設住宅での店舗の開業も実現した。「避難させた村民を失業させるわけにはいかない」と新潟県や国に掛け合い、地震前に山古志で営業していた理髪店を存続させた。郵便局や農協の事務所、避難住民のための診療所も開いた。◆地域に溶け込む復興住宅
山古志を歩くと、他の住宅とやや趣の異なる木造家屋を目にする。地震後に建てられた一戸建てや長屋の復興公営住宅だ。35世帯分が設けられている。 青木さんは「地域に溶け込むように、幹線道路沿いではなく集落内に建てた。各集落に必要な戸数を割り振るので、鉄筋コンクリートの集合住宅は役に立たなかった」と振り返る。高齢化で現在の入居率は5割強だが、親の介護でUターンしてきた入居者もいる。木造平屋の復興公営住宅。大雪にも耐えられる
帰村を望む全世帯が山古志に戻ったのは、地震から3年2カ月後のこと。孤独死はゼロだった。伝統行事「牛の角突き」は復活し、ニシキゴイの養殖・輸出も再興した。米国人の寄贈が契機になったアルパカの繁殖も順調で、今では60頭以上が飼育されている。◆過疎地の切り捨て…能登への危機感
帰村時から半減した現在の人口は約720人。青木さんは「お年寄りが多く、単純な人口減は仕方ない。離村者は少なく、山の暮らしの再生に成果はあった」と自負する。復興の過程で繁殖に成功したアルパカ。エサ(有料)をあげることができる
地震の直後には、長岡市との合併を半年後に控えていたこともあり、村外から「長岡市内に生活基盤を移せばいい」「限界集落にインフラ投資は不要」という声が聞こえてきた。旧山古志村職員は「被災した中山間地域がつぶれる。あしき前例をつくらない」(青木さん)と奮起したという。 青木さんの目には、奥能登の被災地が、かつての山古志に重なって映る。国や専門家から「集約的なまちづくり」を促す提言が相次ぐためだ。「過疎地の切り捨てに直結する」という危機感が募る。◆「集落再生」話し合う場を
「山古志は奥能登よりも人口が少なく、合併前だったので首長がリーダーシップを発揮できた面もある。今の奥能登では自治体職員が少ないこともあってか、集落再生を望む住民に行政が強いメッセージを出し、大胆な復興を進めていく気配がない。小規模集落が維持できるか心配だ」かつての山古志村役場。毎年秋には3本の垂れ幕が掲げられる
1月の能登半島地震の被災者を対象にした報道各社のアンケートでは「地元に戻りたい」という回答は軒並み7割を超えている。とはいえ、宿泊施設などに移る2次避難までの過程で足並みはそろわず、石川県は地区ごとの仮設住宅入居を打ち出したが、すでに住民票を移した世帯も目立つ。 「世帯単位の判断に委ねるのではなく、集落単位の避難所生活や仮設住宅入居に向けて行政が積極的に動く選択肢もあった」と語るのは、山古志の集落再生に長く携わった兵庫県立大の澤田雅浩准教授(都市防災)。現状、NPOなどが小規模集落と行政の橋渡しを担っている地域もあるが、「住民が互いに心をケアしながら、集落再生の方向性を話し合う場が足りていない」と懸念する。◆集落の移転や集約は「リセット」でしかない
澤田氏は「集落は暮らしの安全網」と強調し、拙速な集約に懐疑的だ。「行政サービスの提供には不都合かもしれないが、長く山村や漁村で生活していた人たちは、サービスが限られた状態でも暮らせるスキルと覚悟、豊かな経験を持っている。住民が望めば別だが、集落の移転や集約はリセットを意味する。最低限の生活が可能な自立分散型の集落を残したほうがいい」棚田が重なる自然豊かな現在の山古志。右奥は山古志小・中学校
9月の豪雨による二重の被災に苦しむ奥能登だが、澤田氏は「住民本位の復興に向けた仕切り直しのチャンスだ」と背中を押す。 「この機会にマンパワー不足を解消し、数年のうちに復旧を実現できる体制を構築すべきだ。NPOなどの中間支援組織と協力し、ボランティアが長く滞在できるようにすれば、復興に地域外から携わる関係人口は増える。小規模集落の高齢者を励まし、文化や生活の再生に弾みがつく。今こそ、県や地元自治体は強くアピールすべきだ」◆デスクメモ
山古志村の全村避難を決断したのが、当時の村長だった故・長島忠美さん。批判を承知で「2年で帰ろう」と目標を掲げた。その後、国会議員になったが、全村民が仮設住宅を退去するまで自らも仮設で暮らした。リーダーの判断と振る舞い。20年前の出来事から学べる点は多い。(岸) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。