かつて江戸川と多摩川の河口域を結ぶ「江戸前」で取れる代表的な高級魚だったシラウオ。東京湾では水質悪化などのため絶滅したとみられていたが、川崎市の多摩川河口で半世紀ぶりに見つかった。多摩川では水質などの成育環境も改善しており、このまま定着する可能性もあるという。だが、このシラウオがどこから来たのかは、謎に包まれている。

多摩川河口で2021年2月に採集されたシラウオ(川崎市提供)

◆水質回復、浅瀬ができた…

 研究者らによる「東京湾再生官民連携フォーラム多摩川河口干潟ワイズユースプロジェクトチーム」(PT)と川崎市が9月に都内で記者会見し、成魚や卵の採集を発表した。

記者会見する風呂田利夫・東邦大名誉教授(左)ら=港区で

 「シラウオの『再出現』は、東京湾の環境が再生してきている指標となる。下水道が普及して水質が回復したことに加え、2019年10月の台風19号による増水で、多摩川河口に卵を産める砂地の干潟や浅瀬ができたことが大きい」。PTの風呂田(ふろた)利夫・東邦大名誉教授(海洋生物生態学)はこう指摘する。  川崎市川崎区殿町から大田区の羽田空港周辺に架かる「多摩川スカイブリッジ」(2022年開通、長さ約675メートル)の建設工事に伴い、市が多摩川河口で地引き網を使うなどして環境調査を実施。シラウオの成魚は2021年2月に5匹、2022年2~3月に3匹見つかったほか、2022年10月には77匹が採集された。

◆台風で千葉から?利根川や江戸川から? 三つの説

 一方、卵はPTが河口の砂地で2022年に223個、2023年に98個採集した。研究者らは科学的な検討を経て学術雑誌に論文を発表し、今回の公表に踏み切った。  多摩川河口のシラウオの「由来」は、主に三つの説が考えられるという。  説(1)は、シラウオが生息する印旛沼(千葉県)が2019年の台風19号で増水し、沼から続く新川と花見川を経由して東京湾に流されてきた。  説(2)は、生息地である利根川から江戸川、東京湾を経由した。  説(3)は、2019年12月に隅田川で市民団体がシラウオ復活を願って、小川原(おがわら)湖(青森県)産の1万匹を放流しており、その一部がすみついた──というものだ。

◆「人為的な放流、否定できない」

 PTは、採集されたシラウオのうち、2022年の成魚2匹と2023年の卵17個のDNAを分析した。

江戸前のシラウオ漁を描いた浮世絵「東都花暦 佃沖ノ白魚取」。通常の漁では、十字に組んだ竹で張り上げた方形の浅い袋状の網「四つ手網」を使った(国立国会図書館所蔵)

 小川原湖、印旛沼、霞ケ浦(茨城県)などで採集されたシラウオのDNAと比較したが、どこから来たのかは特定できなかった。風呂田さんは「遺伝的に近い個体が多かった印旛沼の可能性が高いものの、人為的な放流の可能性も否定できない。これ以上の放流は遺伝的な混乱も起こるので、やめていただきたい」と話す。  今後はPTが調査を続ける。風呂田さんは「シラウオを漁獲できるまで増やして、江戸前情緒を復活したい」と願う。

 シラウオ サケやアユの仲間のシラウオ科の細長い魚で、体長7〜8センチほど。淡水と海水が混じる汽水域に生息し、寿命は満1年。徳川家康の好物とされ、江戸時代に将軍に献上された。シラウオ漁は、歌舞伎に隅田川の初春の風物詩として登場し、浮世絵には隅田川やその河口の佃島沖の風景が描かれた。
 1876(明治9)年には東京府(当時)の金額ベースの漁獲統計で芝エビ、アサリに次ぐ3位だった。東京湾の「江戸前」と呼ばれた水域では、昭和初期に年間50トン前後漁獲された。「東京都レッドデータブック(本土部)2023」は「1970年ごろに絶滅したと考えられる」と記述する。

 ◆文・増井のぞみ/写真・七森祐也、増井のぞみ  ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 

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