NPT再検討会議のNGO会合でスクリーンに映る、演説する被団協の田中熙巳さん(2015年5月、ニューヨークの国連本部)=共同

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞は約70年にわたって核廃絶を世界に訴えてきた地道な活動が評価された形だ。半生をささげ、運動の礎を築き、次代にバトンをつなぎ続けてきた先導者の存在なくして今回の受賞はなかった。

日本被団協の田中熙巳さん(92)は運動を最前線で仕切る事務局長を長年務めた後、2017年から代表委員に就任した。ロシアのウクライナ侵略など、世界で核の脅威が高まるが、先立った仲間たちのためにも「核兵器廃絶を諦めない」と誓う。

13歳だった1945年8月9日、長崎市の爆心地から3.2キロの自宅で被爆した。祖父や伯母ら親族5人を亡くした。

戦後、東北大の研究者として移り住んだ仙台市で、被爆者運動に参加。健康だった自身が前に出ることを嫌い「大変な方々のお手伝いがしたい」と、裏方として支えた。

だが、一緒に世界を飛び回った人々は次々に亡くなり、やがて自分も証言者に。2015年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、被爆者を代表して米ニューヨークの国連本部で演説し「核兵器廃絶をもう待てない」と各国に迫った。

原爆投下から79年がたち、運動の中核を担ってきた人たちは核なき世界の実現を見ぬまま相次ぎ亡くなっている。

2016年5月、広島市の平和記念公園でオバマ米大統領(左)と握手する坪井直さん=共同

16年に原爆を投下した米国の現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ氏と握手し、核廃絶を語りかけた坪井直さんは21年に96歳で死去した。

日本被団協の代表委員を務めた坪井さんは広島工業専門学校(現広島大工学部)3年だった1945年8月6日、通学中に爆心地から約1.2キロで被爆。大やけどを負い、幾度も危篤状態に陥った。

戦後は中学教師として生徒に核兵器の恐ろしさや平和の大切さを伝え、「ピカドン先生」の愛称で親しまれた。

退職後は日本被団協のメンバーとして世界各地で被爆体験を語り、核廃絶へのメッセージを世界に広げる立役者となった。

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