核なき世界をあきらめない、と声を上げ続けてきた人々の願いが実った。  日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞が11日、決まった。長年、活動に関わってきた被爆者は喜びをあふれさせ、核兵器廃絶をあらためて誓った。

◆親族5人を亡くし…「どんなに喜ぶことか」

 被団協の事務局長を計20年務め、現在も代表委員として活動を続ける田中熙巳(てるみ)さん(92)は11日夜、埼玉県新座市の自宅で授与決定の知らせを聞いた。ひっきりなしに電話が鳴る中、受賞について「うれしいです。私だけじゃなく被爆者全員が喜んでいると思う。特に、亡くなった方々はどんなに喜ぶことかと思います」と語った。

ノーベル平和賞の受賞が決まり、感想を話す日本被団協の田中熙巳さん=11日夜、埼玉県新座市で(平野皓士朗撮影)

 被団協は長年、核兵器廃絶に向けた運動を続けてきた。田中さんもその実績は平和賞に値すると思い続けてきたが、2017年に核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が受賞し、「もう被団協としてはもらうことはないかな」と思っていたという。「だから(受賞は)思いも寄らなかった」というが、「実は昨日か一昨日かの夜、被団協がノーベル平和賞をもらう夢をみたんだよね。思いが通じたかな」と笑った。  田中さんは13歳の時、長崎市の爆心地から3.2キロの自宅で被爆。親族5人を亡くした。親類の家に向かうと、父方のおばといとこは「真っ黒な炭」に変わり果てていた。

◆壮絶な被害、伝え続けた

 戦後しばらくは連合国軍総司令部(GHQ)の情報統制もあり、原爆の被害は日本でもあまり知られていなかった。1954年の米国によるビキニ水爆実験で日本のマグロ漁船が被ばく。国内の原水爆禁止運動の盛り上がりとともに、原爆の被害が注目されるようになり、1956年に被団協が誕生した。

1978年、国連の軍縮特別総会で被爆者らとニューヨークの街をパレード(田中熙巳さん提供)

 被爆者への医療補償などに加え、被団協の活動の中心となったのは、被害を世界に伝えるために当事者である被爆者が証言することだ。1976年に田中さんが被団協のメンバーとして初めて国連を訪問した時は死者数ですら過小評価されており、「冗談じゃない」と悔しい思いをしたという。「きのこ雲の下の壮絶な被害が全く伝わっていない」と痛感し、国連で直接訴える活動を始めた。  田中さんが中心となって、2000年代からは写真パネルを使った「原爆展」を国連本部内で開催。被爆者が国際会議で証言し、各国代表が総立ちになって拍手が起きたこともあった。  田中さんは今年もピースボートに乗って若者たちに被爆体験を語った。「被爆者が声を上げたことでようやく、具体的に『非人道性』とはどういうことなのかが伝わり始めた。世界から核兵器をなくすために、核兵器禁止条約を世界に広げないと。条約に署名も批准もしていない日本が変わらないといけない」と訴える。(出田阿生)

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◆でも「国家補償も核廃絶も、実現していない」

 東京・芝大門のビル9階にある被団協事務所には11日夕、カメラやボイスレコーダーを手にした多くの報道陣が詰めかけた。所狭しと資料が積まれた室内で、事務室長の工藤雅子さん(62)は「1956年に結成して以来、一貫して原爆被害への国家補償と核兵器の廃絶を掲げて運動してきたことが世界に認められた」と喜んだ。

ノーベル平和賞の受賞が決まり、電話の応対に追われる日本被団協の工藤雅子さん(左)=11日、東京都港区で(坂本亜由理撮影)

 ノーベル平和賞の受賞は、帰り支度をしていた時にかかってきたテレビ局からの取材の電話で知ったという。「驚いたし、うれしく思う。これまでの運動で先頭に立ってきた被爆者らを思い出した」  あの戦争から79年、被爆者たちは皆、病を抱え、高齢化している。「今、生きて語れる被爆者は乳幼児の時に被爆したなど、あの日の様子を語れない人が多い」と歴史を伝え続けることの困難さに直面する。それでも、あらゆる国際会議で発言を繰り返してきた。  「被爆者たちは自分の身に起きたことを、誰にも味わわせたくないという思いで運動してきた」とし、「被爆者が残した手記がいっぱいある。過去に手記を残した被爆者の声を読み取ってほしい」と語った。  日本では50年ぶりとなるノーベル平和賞に喜びつつも、「被爆者たちが願ってきた政府による国家補償も核兵器廃絶も実現していない。このことを知ってもらい、多くの人に自分たちの問題として捉えてもらいたい。重い扉を開くために、もう一歩進んでほしい」と訴えた。(西川正志、太田理英子)   ◇

◆祖母が被爆 「長年の活動、日の目を見た」

 祖母が長崎で被爆し核廃絶を目指す若者の団体「KNOW NUKES TOKYO(ノー・ニュークス・トーキョー)」で代表を務める中村涼香(すずか)さん(24)は「今年はガザの関係だと思っており、まさか被団協と思わなかった」と驚いた様子。「被爆者の言葉にフォーカスが当たり、長年続けてきた活動の重みが日の目を見て、国際的に広まる機会になることはうれしい」と話した。  ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとイスラム組織ハマスとの衝突など世界各地で紛争が続く中、「社会的弱者への暴力にこれだけ強く『ノー』を突き付けられるものはない」と世界で平和を考える輪が広がることに期待を寄せた。  中村さんらはこの夏、東京・渋谷のスクランブル交差点でスマートフォンのカメラをかざすと、実物大に近いきのこ雲が映し出されるアプリを使った作品を制作。渋谷を訪れる若い世代に核の恐怖をイメージしてもらうことを試みた。(山口登史) 

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