10・10空襲は、1944年10月10日にアメリカ軍が沖縄県内各地や奄美諸島に激しい攻撃を行ったものです。
午前7時前から始まった空襲は5回にわたり、およそ9時間続きました。1400人以上が死傷し、当時の那覇市はおよそ9割が焼失、コンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼けました。
日本で初めて民間人が大規模に標的となった無差別攻撃とされ、668人の死者の多くが民間人となっています。
体験者の多くは翌年の沖縄戦の始まりとしても捉えており、アメリカ軍も空中から沖縄の詳細な状況を撮影するなどして、後の上陸作戦に備えて詳細な資料を作成していました。
那覇市歴史博物館の山城みどり学芸員は「アメリカ軍は沖縄に上陸して占領して、さらに日本本土決戦を計画しており、そのための前哨戦として10・10空襲があった」と話しています。
10日には県内各地で語り継ぎや追悼式典などが開かれます。
“10・10空襲から無差別空襲が全国へ広がる”指摘も
この無差別空襲が、その後、全国へ広がったと指摘する専門家もいます。
5回にわたった攻撃のうち、4回目と5回目は地上に落ちると周辺を焼きつくす「焼い弾」が使われていました。
沖縄県平和祈念資料館の学芸員で太平洋戦争や兵器の研究を行っている仲程勝哉さんは、アメリカ軍は木造建築が密集する日本で効率的に打撃を与えることを目的に焼い弾の実験を繰り返していて、初めて日本国内に投下したとされているのが10・10空襲だと説明しています。
アメリカ軍が作成した10・10空襲についての報告書では「那覇はしゃく熱地獄と化した」として、焼い弾による攻撃の結果を記録していました。
仲程さんは「10・10空襲で効果が認められ、焼い弾の攻撃が日本の民間地の攻撃に有用だと判断したのではないか」と話しています。
さらに仲程さんは「日本軍の戦闘機が飛び上がって迎撃することがなかったこともひとつのきっかけとなって、本土空襲の編隊爆撃による焼い弾の無差別攻撃にもつながっているのではないか」と、この空襲が日本軍の防空能力の低さを露呈したことにもつながったと指摘しています。
10・10空襲のあと、11月には東京、翌年には神戸や大阪、それに名古屋なども標的になり、3月10日の東京大空襲では10万人以上が命を落とすなど、焼い弾による無差別攻撃は各地で続くことになります。
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