「花火がね、嫌いなんです」。95歳の古谷孝さんは穏やかな表情で、そうつぶやいた。机の上のノートには、鉛筆で繰り返し練習した漢字が並ぶ。ここは神奈川県厚木市にある自主夜間中学「あつぎえんぴつの会」。さまざまな事情で学び直したい人たちが集う場所だ。
毎週木曜日に開かれる会には現在、中学生から大人まで10人ほどが通い、元教師など約10人のボランティアスタッフが教えている。不登校で勉強できなかった、外国から来て日本語が分からない、など理由はそれぞれ。午前11時から午後7時まで教室を開け、都合のよい時間に来てもらって、スタッフが1対1で対応する。
古谷さんは、隣の座間市からバスと電車を乗り継いで約10年通い続けている。きっかけは、「孫から何か聞かれた時に、教えられるようになりたいと思ったから」。
9人兄妹の三男として東京で育った。父親は露天商で、各地の祭りに出向いては、メンチカツなどを売っていた。酒好きで仕事のない日に居酒屋で酔いつぶれ、呼び出された家族が大八車に乗せて帰ることもあった。そんな父だが、露店を手伝いに行くと、夜店の古本屋で「少年倶楽部」などの雑誌を買ってくれた。それを夢中で読んだ。
ところが戦時中、中学校では木銃を持たされ、足にゲートルを巻いて校庭で毎日、行進の訓練をさせられた。勉強をする時間は、なかった。
1945年3月9日深夜。後に「東京大空襲」と呼ばれた米軍の攻撃で、古谷さんの家は焼け、荒川の土手に逃げた。風にあおられた炎は、川面も覆う勢いだった。亡くなった人たちが川を流れていくのも目の当たりにした。
南方に出征した長兄は戦死したと知らされたが、遺骨は帰ってこなかった。戦後、古谷さんは大工や水道屋など職を転々とし、最終的に座間市役所の清掃課に就職。約20年間勤め上げた。
ある時、隅田川の花火を目にした。空でチラチラと燃え落ちる様子が、空襲の焼夷(しょうい)弾と重なった。以来、花火はテレビの中継でも見ないようにしているという。
県内でボランティアが運営する自主夜間中学は、鶴見、厚木、海老名、鎌倉、相模原の5カ所にあり、いずれも名称は「えんぴつの会」。2012年に鶴見から始まり、広がっていった。厚木は13年11月に発足した。
9月の厚木市議会一般質問で、あつぎえんぴつの会が使っている市の建物が老朽化し、来年12月末で使用できなくなることが取り上げられた。会代表で元教師の岩井富喜子(ときこ)さん(74)は「学びたい人の思いを受け止める自主夜間中学を、続ける必要がある」として、市が所有する中心街の複合施設「アミューあつぎ」などでの継続を要望している。市も支援する方向で調整に入った。
古谷さんは通い始めたころ、小学校の算数から学び直した。今は「脳トレ」のドリルに挑戦している。離れて暮らす孫たちは10年の間に大きくなり、結局教える機会はなかったが、今は学べることと教室で出会った人との会話が「一番の楽しみ」。そして、「ここで勉強できる私は、恵まれている」と話す。
教室があった9月19日、会の人たちは4日後が95歳の誕生日の古谷さんに、お祝いのメッセージを貼った色紙を贈った。(中島秀憲)
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