目次

  • 航海中に水爆実験に遭遇

  • 米軍医の報告書を入手 分析すると…

航海中に水爆実験に遭遇

測量船「拓洋」

1958年7月、海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の2隻は、太平洋を航海中、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇して乗組員が被ばくし、その1か月後、当時の厚生省の協議会は「現在、放射線障害があるという所見は得られない」などとする見解を発表しました。

翌年の1959年8月、「拓洋」の首席機関士だった永野博吉さん(当時34歳)が急性骨髄性白血病で死亡しましたが、厚生省の協議会は被ばくの線量は「微量」で白血病と直接関連づけて考えることは「現在の医学の立場からは困難」だと結論づけました。

米軍医の報告書を入手 分析すると…

今回、NHKは、ラバウルに派遣されたアメリカの軍医が、乗組員の体に現れた異常や被ばく線量の推定値などを詳細にまとめた報告書をアメリカの公文書館などで入手し、広島で長年、被爆者医療に取り組み、現在は福島市の病院に勤務する齋藤紀医師とともに分析しました。

それによりますと、被ばくから12日後に乗組員113人から24人を抽出して行った血液検査で、全体の3分の2にあたる16人の白血球数が減少していると評価されていたことがわかりました。なかには、重度の減少だと評価された乗組員もいました。

さらに、全体の半数にあたる12人に、白血球を構成する成分の割合にも深刻な異常が生じていたこともわかりました。

こうした症状について軍医の報告書では「500ミリシーベルト以上被ばくした場合の急性被ばくや放射線障害と関連づけられることに疑問の余地はない」などと記載されていました。

しかし、船の上での測定値から算出した被ばく線量が微量だなどとして最終的に「健康への影響はない」と結論づけられていました。

齋藤紀医師

報告書の分析を行った齋藤医師は「体の異常の解釈が出来ないと軍医は苦しんでいるが、結論では微量な線量だということで体の異常を打ち捨てている。問題は、矛盾するからといって放射線の影響そのものをないことにしようという姿勢をとってしまったことだ」と指摘しました。

被ばく当時の状況

今回の被ばく事件は、1958年7月、海上保安庁の測量船「拓洋」など2隻が、60か国余りが参加した国際地球観測プロジェクトに参加し、太平洋を航海中に起きました。2隻の乗組員は、放射線量を計測する観測員や医師、同行した新聞記者も含め、あわせて113人でした。

2隻が航海に出た時期、アメリカは、太平洋で3日に1回のハイペースで核実験を行っていて、プロジェクトの調査はアメリカが設定した危険区域を避けて実施することになっていました。

この航海について、「拓洋」の航海長だった大山雅清さんが手記に詳しく書き残していました。

出港した7月3日、「平均年齢29歳。若い乗員構成だ。私は航海長36歳、拓洋も若い。観測点へ向け一路南下」と記されています。

7月13日、「核実験情報入手。本庁79番電『7月12日1230ごろ微気圧振動を感じた。発生地は日本南東方約1500海里』」などと海上保安庁から「拓洋」に核実験の情報が寄せられたと記載されています。

今回、NHKが取材した複数の元乗組員は、航行するエリアが核実験が行われている場所の近くだということを事前に知らされていなかったと証言しました。

仲田次男さん

「拓洋」の甲板員だった仲田次男さん(90)は「幹部の人たちは聞いていたかもしれないが、われわれは一切知らなかった」と話しました。海上保安庁の資料によりますと、核実験の情報が寄せられた翌日、14日の正午ごろ、「拓洋」が危険区域から西におよそ300キロの海域を航行中、「かなり強い放射能気団」に遭遇し、「急激な放射能汚染」を検出したということです。

「拓洋」の甲板で計測された放射線量は、14日の午後0時10分から急激に増え始め、その後も長時間、増加が続きました。

このころ、「拓洋」の周辺ではスコールが降ったということです。

同じ14日、大山さんの手記には「距離と経過時間から拓洋は正に放射能塵拡散帯の中心軸付近にいることになる」、「この汚染気団からすみやかに離脱するには南方へ避退するのが賢明であろう。そこで観測を一時中止し南下」などと記されています。

2隻は観測を中止し、避難のため急きょ、南太平洋のラバウルに向かいました。

7月18日の手記には、「乗員の大多数に白血球数異常低下が認められるので、なお警戒を怠らぬこととした」と緊迫した状況が記されています。

巡視船「さつま」

また、取材のため「さつま」に同乗していた新聞記者が撮影した写真や映像には、乗組員が除染のため、ホースで船体に水をかけている様子がおさめられていました。

海水からは通常より高い放射線量が計測されていましたが、乗組員によりますと、除染に海水を使うよう指示されたということで「さつま」の砲員だった巻木慶三さん(94)は「真水はよけいに積んでませんでしたから海水をくみ上げて3日間続けて除染しました」と証言しました。

ラバウルに到着したあと、乗組員にはアメリカの軍医による身体検査などが行われ、被ばくから24日後の8月7日、2隻は東京に戻りました。

当時のニュース映像には、乗組員を出迎える家族たちの姿が残されています。

アメリカの核実験と日米関係

測量船「拓洋」が被ばくしたこの時期、アメリカの核戦略が日米の関係に大きな影響を与えていました。

1950年代、米ソの核軍拡競争が加速し、東西の対立が先鋭化しました。

アイゼンハワー大統領(当時)

アメリカでは1953年に発足したアイゼンハワー政権が、通常兵器に代えて核兵器に依存する防衛戦略、いわゆる「大量報復戦略」を打ち出しました。

原爆よりさらに威力がある水爆で、ソ連に対する抑止力を高めようとしました。

しかし、1954年3月、アメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員が被ばくするビキニ事件が起きました。

乗組員は「死の灰」を浴び、被ばくから半年後には、無線長だった久保山愛吉さんが亡くなりました。

ビキニ事件をきっかけに核実験禁止を求める運動が日本全国で展開され、世界的にも核兵器廃絶への潮流が生まれ、アメリカの核戦略は国際的な非難にさらされました。

そして、4年後の1958年7月に行われた水爆実験「ポプラ」で、海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の乗組員が被ばくしました。

日米の間では、ちょうどこの時期、日米安全保障条約の改定交渉が始められようとしていて、外務省の内部文書には、反核世論がアメリカへの反発につながり、交渉が難航することを懸念する内容が記されていました。

事件には不明点も

この事件では、被ばくによる乗組員の体への影響について、明らかになっていないこともあります。

2隻の乗組員は、帰国したあとも複数回、検査を受けていて、当時の厚生省の協議会は、「異常は認められなかった」などと一貫して影響を否定しました。

また、被ばくから1年後の1959年8月に急性骨髄性白血病で亡くなった永野博吉さんについて東京大学理学部と当時の放射線医学総合研究所が遺体の検査を行いました。

このうち、放医研は「十分論じることができない」としましたが、東京大学の検査では永野さんの内部被ばく線量が2レム、およそ20ミリシーベルトと推定されました。

この検査結果を踏まえ、厚生省の協議会は永野さんの被ばくの線量は「微量」で、白血病と直接関連づけて考えることは「現在の医学の立場からは困難」だと結論づけました。

いずれの場合もどのような議論を経て結論に至ったのかなど、被ばくの影響を否定する判断をした理由は明らかになっていません。

このためNHKは協議会の議事録など一連の文書について情報開示請求を行いましたが、厚生労働省は「作成または取得した事実はなく、実際に保有していないため、不開示とした」としています。

永野さんの妻 澄子さん「『秘密、秘密、秘密』と口止め」

被ばく事件の翌年、急性骨髄性白血病で死亡した「拓洋」の首席機関士、永野博吉さん(当時34歳)の妻・永野澄子さん(当時93歳)が、ことし5月に亡くなる前、取材に応じました。

博吉さんが太平洋上で被ばくしたのは澄子さんと結婚してまもない1958年7月で、2人の結婚生活はわずか3年だったということです。

被ばく直後の博吉さんの体調について澄子さんは「体がだるく、毛が抜けたと本人から聞いた」と話しました。

そのうえで、「船で帰ってくる途中から毛が抜け始めたらしいです。帰国したあとはももから下の足の毛がすっかりきれいに抜けてしまっていました。『また毛が抜けた』と言っていたことは覚えています。本人は気にしていました」と話しました。

その後、博吉さんは船での勤務を再開しましたが、事件からおよそ1年後、歯ぐきからの出血が止まらなくなり、入院しました。

病室には大量の血がついたシャツが置かれていたこともあったということです。被ばくから1年後の1959年8月3日、博吉さんは亡くなりました。

博吉さんが亡くなった日、国の役人から口止めされたということです。

永野澄子さん

澄子さんは「口止めされたことは覚えています。とにかく『秘密、秘密、秘密』でした。それから『日本の国だけの問題じゃなくて、アメリカも絡んでいるから』っていうことを言われました。それだけは悔しいです」と話しました。

さらに「『博吉さんのこの放射能の量ではお子さんに対して、そのまたお子さんに対して将来の遺伝っていうことを考えなくて結構です』と即座に言われました」とも話しました。

そして、澄子さんは「人の命に代わるものはないです。陰に泣く人が何人もいるんだということを忘れないでほしいです。だから、もうこういう思いをする人はなくしてほしいです」と訴えました。

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