今日では日本文学の古典として世界でも名高い『源氏物語』だが、紫式部が執筆した平安時代には「格下」の本とみなされたという。まず、この日本最古の長編小説を一つの切り口に、書物の歴史をひもとこう。

読みたい物語を書き写す

仏教が栄えた奈良時代以降、大量に経典が作られた。写経をする職人「経師(きょうじ)」が活躍し、後に装丁全般の仕事をするようになる。平安時代中頃には、上質で丈夫な紙も作られるようになった。仏典、歴史書、公家の日記などは漢文の「正式」な書物として巻物に仕立てられ、数百年、千年にわたり大事に保管された。木版印刷も寺社とその周辺で行われるが、その技術が広く伝わることはなかった。

一方、「かつて『物語』は語り継がれるもので、書き留めるという意識はありませんでした」と橋口氏は言う。「平安時代には、“もの”は“物の怪(け)”を指すこともあり、怨霊などの存在について声に出して『語る』ことで、それを鎮める効果もあると考えられていたのです」


橋口侯之介さんは東京神田神保町で和本、書道関連の本を扱う誠心堂書店の2代目店主。上智大学文学部史学科卒業後、出版社勤務を経て1974年、昭和初期に妻の父が創業した同店に入り、84年に店を継いだ。主な著書に『和本への招待』(角川文庫)、『江戸の古本屋 ―近世書肆のしごと』(平凡社)など。(撮影:nippon.com)

「物語を本にするという意識が芽生えたのは、『源氏物語』が成立した11世紀初めの平安時代中頃です。紫式部や清少納言などが最初から人に読ませることを目的に書いたのです。当初は読みたい人が書き写し、次に読みたい人に譲ったり貸したりすることで広まりました」

女性には漢文体で書くべしという規範が求められなかったため、『源氏物語』『枕草子』をはじめとする女流作品は、仮名で書かれた格下の「草(そう)」とみなされ、巻物ではなく「冊子(そうし=草子/草紙)」に綴(と)じられた。

『紫式部日記』によると、何人かの能書家(書の巧みな人)に清書を依頼して、それらを「綴じ集め」たという。


2019年に見つかった藤原定家の写本『源氏物語』の「若紫」。定家が手を加えたとみられる校訂箇所がある=京都市/時事

「式部は長編を一気に書いたわけではなく、少しずつ書き足していったのでしょう。シリーズものといった構成です。それを、読みたい人たちが書き写していく際には間違いも多いし、勝手に話を変えてしまう人もいます。原本は残っていないので、原文が確定できません。式部の時代から200年を経た鎌倉時代に、(歌人・文学研究者の)藤原定家が校訂作業に取り組み、最終的に全54帖としたのです」

「面白さ」を求める読者層の広がり

平安時代後期に、古本の商いに関するわずかな記録がある。能書家の藤原行成が筆をとったとされる『白楽天詩巻』の巻末に、行成から4代後の定信が、同書を経師の妻の「物売りの女」から入手したと書き足している。経師は造本だけでなく、本の売買も手掛けていたことがうかがわれる。

16世紀後半にポルトガル人宣教師たちが編んだ『日葡辞書』の「経師屋」の項目には、「経開き、 拵(こしら)え、綴(つ)づる家。印刷所または本屋」とある。経師は仏典を作り、印刷し、売買も手掛けていたことを示している。

室町時代以降、巻物は減り、糸綴じの本が主流になっていく。応仁の乱(1467〜77)で荒廃した京都が豊臣秀吉の下で復興すると、寺社の周辺にいた町衆(商人、職人など地域ごとに自治的な共同体を営む人たち)の中から、主に古本を扱う本屋が現れた。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、活字印刷が導入された。寺院版の仏典だけでなく、『伊勢物語』なども平仮名で印刷されたことは画期的だったが、技術的な限界があった。

「26文字の組み合わせで済むヨーロッパの活字印刷と違って、漢字や仮名など数千もの活字を用意しなければならず、1回の刷り部数は100程度だったといわれます。読者層が広がるにつれ活字では追い付かなくなり、木版の良さが再発見されました。増刷も容易だし、板木(はんぎ)は丈夫なので数百年は使えます。木版印刷を契機に、古本だけ扱っていた本屋が店を構えて出版も手掛けるようになりました」

「読書文化が育ったことが、17世紀の一番の特徴です。それまで、学問するのは僧侶や公家たちが中心でした。江戸時代になると、武家層が勉強するようになり、商人層も育ってくる。その人たちが、読書に目覚めました。学術本だけではなく、『源氏物語』『徒然草』など物語やエッセーを木版本で読み、夢中になったのです」

「説教節など中世の流浪の民による演劇的な口承文芸は文字化されて本になり、浄瑠璃や歌舞伎に取り入れられて台本も出版されました。江戸では歌舞伎、関西では浄瑠璃が人気で、近松門左衛門は浄瑠璃の新作を描きおろし、本屋もそれに合わせて出版するなどのコラボも盛んでした」

また、平安時代に格下の「草」だった『源氏物語』は、藤原定家による校訂以降にさまざまな注釈本が作られ、古典文学に格上げされていた。


『絵入り源氏物語』(1654年)5巻「若紫」より(椙山女学園大学デジタルライブラリー)

「商人や武家のお嬢様たちの嫁入り本にもなりました。書家が物語を書き写し、美しい装丁の本に仕立てるのです。54帖全てそろえるのは、相当裕福でないと無理だったでしょう。庶民は比較的安い木版本を入手しました。必ず挿絵が入り、いろいろな絵師が競って描きました」

海賊版対策と草紙の発達

江戸時代、学術書や仏教関連などの硬い本を作る本屋と大衆向けの安い本を扱う本屋があった。後者は草紙屋と呼ばれ、京都では浄瑠璃本の出版で発展し、大坂(※1)では井原西鶴の人気で軌道に乗る。

京都・大坂で商業出版が盛んになると、海賊版や「類版」(真似した本)が氾濫する。そこで、本屋たちは、海賊版を取り締まってほしいと集団で奉行所に掛け合い、その代わりにキリシタン関連や好色物など、禁書を出さないように努めるとした。大坂、京都でこれが認められ、「本屋仲間」が組織された。加入すると、出版して販売ルートに乗せる権利を得る。出版、つまり板木の権利を「板株」と呼び、本屋間で自由に売買することができ、そのための取引所もできた。

一方、「地本屋(じほんや)」と称した江戸の草紙屋は、商業出版で出遅れたものの、次第に独自の進化を遂げる。当初は子供向けの赤本、青少年向けの黒本が多かったが、江戸にも本屋仲間ができた18世紀中頃になると、書きおろしの大人向け作品が主流になる。それが、黄表紙という分野だ。今日のマンガに似て、絵が中心で登場人物のセリフが書かれ、ト書きにあたる詞書(ことばがき)が入る。今なら、数百円で買える値段だったようだ。

「江戸時代には『草』が発達して、ダジャレ、パロディを駆使したさまざまな面白い本が作られました。その中心にいたのが蔦屋重三郎です。喜多川歌麿や東洲斎写楽などの絵師、戯作者の山東京伝などを発掘しました。蔦重が活躍した18世紀後半が、江戸の出版文化のピークでした」


1793年、蔦屋が刊行した山東京伝作の黄表紙『堪忍袋緒〆善玉』。京伝(左)の自宅に原稿取りに訪れている蔦屋重三郎(右)(国立国会図書館)

「草紙がよく売れたのは、日本人の識字率が高まったからです。寺子屋の功績が大きい。江戸後期になればなるほど、読者の裾野が広がりました」

「本屋は出版、新本販売だけではなく古本も商いました。私が調べた限り、江戸時代は古本の比率の方が高かった」と橋口氏は言う。「幕臣や大名の中に、本好きのコレクターが育ってきたからです。昔の本の方が珍しくて高価なので、良い商売になりました。古本を集めるための場所として、板株の取引所は古書市場にもなりました」

このように、本屋の業態は多岐にわたっていた。草紙本は人気があったので貸本屋も増えていく。橋口氏によれば、1808年、江戸に656軒の貸本屋があったという記録がある。

消えゆく江戸の本屋

1868年、江戸幕府が終えんを迎えると、幕臣や大名たちが大量の本を放出し、古本の価格は暴落した。それに目をつけたのが、幕末から明治初期に日本に滞在した日本通の外国人たちだった。英国人外交官・通訳のアーネスト・サトウや東京帝国大学で教鞭を取ったバジル・ホール・チェンバレンをはじめ、古典籍に魅了された外交官や「お雇い外国人」が、膨大な量を購入した。

明治政府は法律によって、古本を古着や質屋などと同じく「古物」に分類し、新本と古本を分離する。また、出版は内務省への届け出制となり、板株の発行はなくなった。「ガラパゴス」的な進化を遂げた本屋業界は変容を余儀なくされることになる。

「新本は内務省、古本は警察に届けを出す制度になりました。手続きを踏めば、両分野で商売はできました。しかし徐々に政府は出版の検閲を強化し、警察は盗難本の売買を警戒して、古本取引の取り締まりを強化します。新本、古本の兼業は難しくなりました」

「活版印刷が普及するにつれ、書物の形態も和装から洋装、和紙から洋紙が主流となっていきました。明治20年(1887)までに、木版の和本は激減して洋本の活字本が圧倒的に多くなり、江戸時代から続いてきた本屋はほとんどがやめてしまいました」

学校の教科書や雑誌の全国的な流通網も確立し、出版、新本販売、取次、古本屋が別々に存在するようになり、現在に至る。

「生き残り戦略として、今の古本屋は専門化しています。神保町には現在130軒の古書店が集まり、古典籍から近代文芸、映画、マンガ、スポーツ関連など、図書館のセクションごとの棚のように、それぞれが分野ごとに特化しているのです。ある意味で街全体が大きな図書館です」

橋口氏は、和本の歴史には日本人の「本へのこだわり」が凝縮されていると言う。


1930年開業の誠心堂書店。侯孝賢(ホウシャウシェン)監督の映画『珈琲時光』(2003年)のロケ地にもなった(撮影:nippon.com)

「例えば、『源氏物語』は、紫式部がみんなに読んでほしいという熱い思いで丁寧に紙を選び冊子に仕立てました。読みたい人たちがそれを写し取ることで広まり、江戸時代には古典として愛され、美しい装丁の写本や挿絵入りの木版版が作られました。一方で、発想豊かな草紙が人気を博し、その中には、今のマンガに近い本もありました。今日、読書離れが進んだといわれますが、スマホで電子本を読むのも新しい読書の形だし、すぐ処分する本もあれば、手元に長く置きたい本もある。それは今も昔も同じでしょう。千年以上続いてきた日本人の本好きは、本質的に変わらないと確信しています」

(※1) ^ 本文中では江戸時代の「大坂」を使用

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