◆周りの建物が倒壊する中、無事だった銭湯
父の長松(ちょうまつ)さん(1911~75年)は同県輪島市の農家に生まれ、1923(大正12)年9月1日は、同郷の人が営む東京都内の銭湯で修業中だった。昭雄さんによると、当時はドカーンと揺れ、中庭に逃げると瓦がバタバタと落ちてきた。周りの建物が倒壊する中、無事だった銭湯を見た長松さんは「金をかけて、良い材料でつぶれない建物にしよう」と思ったという。通し柱と太い梁を使った構造で地震に耐えた湊湯の2代目源田昭雄さん=8月29日、石川県能登町宇出津で
長松さんは1933年、能登町で売りに出ていた銭湯を買い取って独立。戦後すぐに建て替えた。幅約50センチのケヤキの梁(はり)と、強固なカナアテの柱で支えた。8本の通し柱で補強し、瓦は太い銅線で固定した。◆休業日だった元旦、掃除中にドカーンと
70年以上たった今年の元日は休業日で、昭雄さんは翌日の営業に向け、浴場や釜場を掃除していた。この時もドカーンと揺れ、向かいの建物が崩れた。 湊湯も湯があふれて脱衣所まで水浸しになり、天井や壁、富士山の絵の一部が落ちた。それでも建物は無事で、井戸水も電気も暖房も使えた。「これなら風呂ができる」。応急修理を施し、2月に店を開けた。入った人は「良い風呂でした」と喜んでくれた。◆「銭湯はそういう仕事、責任果たすんや」
町民向けの無料開放を続ける湊湯=8月29日、石川県能登町宇出津で
先代の教訓は耐震化だけではない。長松さんが他界した後、東京や北海道、兵庫県などの数人から香典が届いた。連絡を取ると、戦中戦後に町内に疎開していた人だった。 ある人は湊湯に来て「子どもだけでも入れてください。学校で臭いと言われる。金ができたら返しますから」と頼んだ。長松さんは「1人や2人、変わらん。遠慮せんでええ」と受け入れたという。 「何とか食べて雨露をしのぐ人がいっぱい来とった」と語る昭雄さんは「おやじに教えてもろたのは、いざというときの銭湯。そういう仕事なんや。その責任を果たすんや」と覚悟を決めている。 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。