◆千葉・佐倉のDIC川村記念美術館、近年は赤字経営で
美術館を所有・運営するのは印刷インキや有機顔料を手がける化学メーカーDIC(本社・東京都中央区)。地域への社会貢献活動の一環として1990年に同社研究所の敷地内で開館した。 20世紀美術を中心に754点の作品を所蔵。このうち、モネや巨匠パブロ・ピカソの作品を含む同社所有は384点で、その資産価値は6月末時点で総額112億円(簿価ベース)に上る。米国を代表する画家マーク・ロスコの作品群の展示室「ロスコ・ルーム」や、四季を楽しめる庭園を目当てに訪れる人も多い。2025年1月に休館するDIC川村記念美術館=千葉県佐倉市(DIC提供)
ただ、同社によると、維持費や企画運営費などのコストがかさみ、近年は赤字運営が続いていたという。美術館は「資本効率という側面で必ずしも有効活用されていない」とし、4月に外部人材で構成する「価値共創委員会」を設置。運営のあり方を検討してきた。 同委は8月上旬、会社の業績などを踏まえ、「現状のまま美術館を維持、運営することは難しい」として、東京への「縮小移転」か「運営中止」を取締役会に提言。同社は今月27日、年内に今後の運営方針を決め、現在の美術館は来年1月下旬から休館すると発表した。縮小移転案を軸としつつ、「運営中止の可能性も排除しない」という。◆名画売却の可能性も「あり」
著名作品も含めた所有品はどうなるのか。同社は「現時点で売却について決まっていないが、可能性としてはある」と答えた。 美術館休館の背後に見え隠れするのは、投資家の存在だ。特に注目されるのが、「物言う株主」として知られる香港の投資ファンド「オアシス・マネジメント」。非効率な資産の売却など、厳しい経営改善策を迫り、企業経営者に恐れられる存在だ。 これまでにエレベーター大手フジテックや、ドラッグストア大手ツルハホールディングスに経営陣刷新を提案し、攻防が話題を集めた。7月には、紅こうじサプリメントの健康被害問題の渦中にある小林製薬に投資し、注目された。 DIC株については昨年12月に5%超を取得し、今年3月に保有割合を8.56%に増やした。関東財務局へ提出した大量保有報告書には「株主価値を守るため、重要提案行為を行うことがある」と記した。◆閉館に反対するオンライン署名サイトも
赤字続きの美術館運営にも物申したのか。「こちら特報部」は30日、オアシスにメールで問い合わせたが、同日夜までに返答はなかった。DICの広報担当者は「さまざまな株主から改善を求める意見が出ていた」と話したが、オアシスとやり取りがあったかについては明言しなかった。2025年1月に休館するDIC川村記念美術館=千葉県佐倉市(DIC提供)
美術館の休館発表後、オンライン署名サイトで「移転、閉館への反対」を募るページが立ち上げられ、「資本効率という言葉では切り捨てられない」といった存続を求める声が寄せられている。地元・佐倉市の西田三十五市長も「署名活動など、早急に存続に向けた有効な方策に取り組む」との異例の声明を出した。 ブリヂストンやサントリー、ポーラなど美術館運営にかかわる企業は数多い。その運営方法に目を向けると、DIC川村記念美術館は直接運営だが、公益財団法人化して企業本体から切り離すケースが目立つ。◆公益法人は税制上のメリット、運営性の透明性も
企業統治に詳しい青山学院大の八田進二名誉教授(会計学)は「一つの勘定でごちゃまぜにするのではなく、別組織にすれば収支など経営状況が外部から見えやすくなる。公益法人なら税制上のメリットがある上、定期的に国から活動内容のチェックも入るため、より透明性が高まる」と「分離」の利点を指摘する。ゴッホの名作「ひまわり」などを所蔵するSOMPO美術館=東京都新宿区で
東京証券取引所は「資本コストや株価を意識した経営」を上場企業に求めているが、「企業美術館は基本的に赤字」(美術ジャーナリストの藤田一人氏)。DICが株主から、赤字の美術館の改善を迫られた背景には、直接運営で透明性に欠けると判断された可能性もある。◆社会的地位を築いた者の責務として社会貢献の意識
では、企業美術館の意義とは何か。藤田氏は「美術の普及啓発に大きな貢献をしてきた」と評価する。 美術館と言えば東京、京都、奈良に国立博物館しかなかったような草創期の1917年に開館した大倉集古館(東京)や、西洋美術の名門・大原美術館(岡山)など戦前から企業家の個人所有品を元にした美術館はあり、市民が作品に触れる機会を提供した。 戦後、個人ではなく、企業による美術館の祖といわれたのが、ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館、東京)だ。コレクションのきっかけは同社創業者の石橋正二郎が、同郷の洋画家青木繁の作品の散逸を防ぐことが目的だった。さらに戦後の混乱期に旧家が手放しやはり散逸の危機にあった名品を積極的に購入。1952年に開館した。藤田氏は「社会的地位を築いた者の責務として社会貢献の意識が強かった」とみる。 その後は、企業PRも意識されるようになり、さまざまな企業が美術館をオープンさせた。名作購入も盛んで、バブル期の1987年にはゴッホの「ひまわり」を当時の安田火災海上保険が58億円で落札。ゴッホやルノワールの作品を落札した大昭和製紙(当時)の斉藤了英名誉会長が「(自分の死後)棺おけと一緒に焼いて」と放言し、非難された。「死ぬまで世界の名画を買い続ける」と怪気炎を上げる斉藤了英氏=1991年5月、静岡県富士市の大昭和製紙本社で
◆バブル崩壊、コロナ禍…厳しい財政で撤退も
ただ、バブル後は撤退が相次ぐ。百貨店美術館の先駆けとなった西武グループのセゾン美術館は1999年に閉館。コロナ禍も経営難に拍車をかけ、昨年は、スルガ銀行の創業家が関わるヴァンジ彫刻庭園美術館が歴史を閉じた。財政難は国公立の美術館も同様だ。 藤田氏は「美術市場は高騰し作品を売却しやすい環境にある。企業美術館の閉館は今後も出てくるだろう」と見通す。一方、2013年、米デトロイト市が財政破綻した際に市民が立ち上がり、大規模な募金によって、市立デトロイト美術館の所蔵品を守った逸話に言及。「厳しい環境でも意欲を持って経営を続ける企業美術館もある。作品は市民の財産であることも忘れてはならない」と述べた。◆アートの理念や使命、再度問い直す必要が
企業のイノベーションとのつながりに注目する見方もある。和光大の平井宏典教授(博物館経営)は「アートには既存の価値観を揺さぶる力がある。効率を求めて自分の専門に近いところばかり探してもブレークスルーは生まれない。異質なものに触れてこそ新しい発想が生まれる」とアートの効用を説く。 その上で続ける。「現在美術館の入館者数はコロナ禍以前の水準に戻りつつあるが、依然として経営環境は厳しい。このような状況下だからこそ、美術館の理念や使命を再度問い直し、多額のコストが必要だったり、本業に直接関係ないとしても、なぜ必要なのか、投資家に説明し理解を得ることが重要になっている」◆デスクメモ
DICの保有する作品群の価値は時価で「計10億ドル(約1400億円)以上になる」との投資家の見方を英紙が紹介していた。物言う株主はそこに目を付けたのだろうか。真偽はともかく、昨今のアート作品の高騰は、市民が身近に触れる機会を遠ざけはしないか。そこが心配だ。(岸) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。