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石津博典が太平洋戦争の戦場で描いた命懸けの200点 画家になった娘は「父が絵に込めた魂、受け止めた」
石津博典(いしづ・ひろすけ) 大阪府出身。新聞社の嘱託画家として4コマ漫画や小説の挿絵を担当。1942年に徴兵され、シンガポールに上陸後、インドネシアのジャワ島などを転戦。帰国後に「学習画報」(世界文化社)、「かがくのとも」(福音館書店)などの絵を手がけた。
◆船内
昭和18年4月下旬 バタビヤ―スラバヤの間 インドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)―スラバヤ間で、船内の様子を描いたとみられる。下描きのスケッチもあり、兵士らの様子を丁寧に描こうとしたことが伝わる。◆銃を構える日本兵
対空射撃 石田一等兵 アンボンへ行く船中 彼の頼みで 18年7・11 厳しい目つきで銃を構える日本兵。他にも仲間の兵士を描いた絵が多数あった。義子さんは「いつ死ぬか分からない状況の中で、若者たちは故郷の家族のために、自身の姿を描いてほしいと父に頼んだのではないか」と思いをはせる。◆自画像
1943年、石津さんがボルネオ島から故郷の家族に送ったはがきには「寫眞(写真)のかはりに」と自画像が描かれていた。「僕はこんなに元気です」とも記され、豊かな色づかいが目を引く。◆インド兵
読み取れない部分もあるが「義勇兵スマラ君」と書かれ、日本軍の支援で設置されたインド国民軍の兵士の可能性がある。他にもインド人やインドネシア人の兵士の絵が多数あり、「住民側から見た生々しい戦争を語ってくれた」と記された作品もあった。◆インドネシアの女性
「アンボンの食堂の少女」(右)と「ジャワのマンゴ売り」 インドネシアの住民を描いた絵も残されていた。◆昭南島
昭南島で一番激しい激戦のあった築紫山です。左に見え(る)のが敵の兵營(営) あれから一年 もうすっかり何もかも緑に覆はれて了(しま)ひました。 占領時のシンガポールは昭南島と呼ばれた。激戦から1年後に訪れたとみられ、その変化を伝えている。生前の石津博典さん=世田谷区で
◆文・昆野夏子/写真・布藤哲矢 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。