東京都内の被爆者団体「東友会」で42年間、相談員として活動する村田未知子さん(73)が都内で講演し、被爆者らが感じてきた差別や孤独を紹介した。広島、長崎に原爆が投下されてから79年。村田さんは「核兵器廃絶のため、被爆者とともに歩みを」と訴えた。(山田祐一郎)

◆相談は今も年間1万2000件

 17日に東都生活協同組合が開いた「平和のつどい」で講演した。村田さんは冒頭、「『東友会』と名乗るのは、いまだに『原爆』という言葉が入った手紙を送るのもはばかられる状態の人がいるから」と説明した。多くの被爆者が自身の体験を隠してきたことを証言を通じて紹介した。

講演する村田未知子さん=東京都内で(山田祐一郎撮影)

 1982年から相談員として活動する。東友会には現在も年間1万2000件の相談が寄せられ、被爆者やその家族の相談内容は「カルテ」としてファイルに保管されている。その数は約8000人分。現在も相談が継続する「白色ファイル」は64個。既に相談者が死亡した「水色ファイル」は84個に上る。現在は被爆者本人よりも家族からの相談が増えているという。

◆相談カルテが伝える過酷な人生

 相談者の被爆体験や健康状態を記したカルテは、被爆者がたどった過酷な人生を伝える。  広島で被爆した田部光子さん=故人=は投下後、幼い娘2人と「こじきのような生活を始めた」と明かす。破れたトタンで囲っただけの小屋で電気も水道もなく、拾ってきた鉄かぶとを鍋代わりにして食事を用意した。「2歳だった下の娘は鼻から口にかけて大けがをしたが2カ月たっても傷がふさがらず、高熱と血便を出して消え入るように亡くなった」。しばらくすると上の娘も同じ症状に。「妹と同じ姿になっていくことに5歳でも分かったのか、『死にたくない』と言いながら亡くなった」。田部さんは2人を自らの手で火葬した。「2カ月後の広島では当たり前の光景でした」

◆家族や職場に被爆を隠し続けた男性

 東京で暮らす被爆者が差別を受けたという証言は多い。長崎で爆心地から900メートルの距離で被爆した米田チヨノさん(97)は結婚後、東京へ。夫の実家から届いたレンコンを近所に配ると、後日、捨てられているのを見つけた。近所の子どもからは「原爆がうつる。食べたら死ぬ」と言われたという。このほかにも何度も縁談を断られたという体験が紹介された。  差別を恐れ、自身が被爆者であることを周囲に明かすことができない人も。自宅にある東友会のパンフレットを見て連絡してきた被爆者の妻から「夫が倒れたのに病院に行こうとしない」と相談を受けた。男性は健康診断を受けず、家族や職場に被爆を隠し続け、肺がんで亡くなった。

◆「1人にしないで」と遺言

村田未知子さん

 25歳の時に広島で被爆した織田アヤさん=故人=は1999年に村田さんに遺言状を寄せた。結婚を決めていた男性が戦死し、東京で料亭などで働いたが、ずっと一人で生きてきた。「声を掛けてくれる男性もいたが、原爆のことを知られると結局だめになった」。織田さんは遺言を書いた半年後に亡くなった。望んだのは「一人にしないで」。村田さんらは無縁塚に入れられた織田さんの遺骨を後に「原爆被害者の墓」(東京都八王子市)に移した。現在、墓には61人が眠る。  人生の約6割を被爆者と共に歩んだ村田さん。「いつまで一緒に歩けるかわからない」としつつ、来場者にこう訴えた。「被爆者の友人をつくってください。被爆のこと、その後のこと、被爆者の人生を聞いてください。それが核兵器が人間に何をしたか知ることだ。そして知った人が核兵器廃絶のために一緒に歩いてほしい」 

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