無言館は、長野県上田市郊外の小高い丘の上にひっそりと立っている。正面に「無言館」と彫られ、扉もあるものの、そこが入口とは明示されていない。何か「覚悟」が問われているかのようだ。


建物のデザインも窪島さんが手掛けた。正面は石棺のようでもあり、俯瞰すると十字架の形になっている

扉を開けると、薄暗く静ひつな空間が眼前に広がる。太平洋戦争に散った美術学校の画学生や卒業生の遺作たちが壁いちめんに展示され、中央のガラスケースにはスケッチブックや手紙などの遺品も並んでいる。

足を踏み入れた途端、背後に気配を感じて振り返ると、兵隊らしき肖像画が正面を見据えている。大貝彌太郎「飛行兵立像」。大半の絵の具が無残に剥がれ落ちてしまっているが独特の存在感がある。絵のモデルは、特攻隊員だったといわれている。


無言館の「入り口」には受付がない。扉を開けるとすぐ展示空間が広がり、時空を超えた感覚に襲われる

身重の妻を残し出征 我が子を抱けずに散った

視線を前に戻すと、左右の壁に向き合うようにかかる裸婦像に目を奪われる。左の壁には日高安典「裸婦」、右の壁の絵は中村萬平「霜子」とある。

日高は鹿児島県種子島から2浪して東京美術学校(現在の東京芸大)油画科へ進み、繰り上げ卒業後に出征した。満州やフィリピンを転戦し、45年4月、ルソン島で戦死。「裸婦」は日高の弟が東京のアトリエから持ち帰って保管していたものの一枚だ。モデルの女性に、日高は憧れていたという。

一方の「霜子」には、青黒い暗闇の中で片膝を立てる女性の裸体が描かれている。重々しい色彩をまとい、二人の宿命を暗示するかのようだ。

中村は、東京美術学校油画科を首席で卒業したが、身重の妻を残して出征した。妻は男児を出産後、ひと月ほどで他界。中村も妻の死から半年後の43年8月、我が子を一度も抱けないまま戦地で病死した。「霜子」は夫妻の忘れ形見である息子の暁介さんが大切に保管していたものだった。

現在、無言館には130人の画学生による177点の絵画や彫刻が展示され、収蔵庫「時の庫(くら)」には約600点の遺作を保管している。

展示作品には、作者がいつ、どこで亡くなったかを知らせる解説が添えられている。中にはその記録すら残らずに散った者もいるが、いずれにせよ、画学生たちは恋人や家族の肖像、故郷の風景画などを残し、命を落としていったことを揺るぎない現実として、見る者に突きつける。

「戦後の経済成長男」の人生、復員画家との出会いで一変

30年ほど前に戦没画学生たちの遺族を訪ね歩き、この無言館を開設したのは、現館主で文筆家の窪島誠一郎さんだ。作家の故・水上勉さんの実子としても知られる。

いま82歳となった窪島さんは、無言館館主としての四半世紀を振り返るとき、こんな複雑な心情を打ち明けるのだった。

「戦没画学生の存在と作品をいたずらに消費してきた26年だった。自分があの世に行く前に、この画学生たちに対して、偽りのない気持ちで向き合わなくてはと思うんです」

日米開戦の数週間前、41年11月に生まれた窪島さんは、これまでも「自分にはこれといった戦争体験がない」ことへの負い目を公言してきた。「何しろ戦後の経済成長の流れに乗って生きてきた、幸運な成功者の一人ですからね」。

戦災で荒廃した東京で貧しい靴職人の養父母に育てられたが、独自の商才を発揮し、20代前半にスナック経営で成功を収めると、寺山修司や浅川マキなどが輩出した小劇場「キッド・アイラック・ホール」を東京・世田谷に開設した。

渋谷で画廊経営にも乗り出し、30代の終わりに、夭逝した画家たちの作品を集めた美術館「信濃デッサン館」を上田市に開設した。

そんな自称「戦後の経済成長男」の人生の潮目が、50代半ばで一変した。画家の野見山暁治さんとの縁がつながったためだった。

耳に残る学友の声 「生きて帰れるのか。また絵が描けるのか」

野見山さんは、あの戦争の「生き残り」としての贖罪(しょくざい)意識を、抱えながら生きていた。


戦地からの手紙やスケッチなど遺品も多数展示。幾層にも絵の具が重なるパレットが、画学生の無念を今に伝える

1920年に生まれ、東京美術学校を繰り上げ卒業して出征した野見山さんは、満州でろく膜を患い、復員。内地で終戦を迎えたが、戦場に残った学友の多くは生きて帰らなかった。

終戦から20年が過ぎたころ、野見山さんは戦没画学生の遺族を訪ね歩き、遺作と向き合い、1977年には『祈りの画集 戦没画学生の記録』として刊行した。

そしてこの『祈りの画集』に関心を抱いた窪島さんが、野見山さんに「信濃デッサン館」での講演を依頼した。戦後50年を目前とした1994年のことだった。

講演後、野見山さんは投宿先の温泉宿で、戦争体験を話してくれた。

自分が内地へと戻る列車を、軍服姿で見送りに来た仲間たちのこと。窓をたたきながら、「お前、生きて帰れるのか。また絵が描けるのか。うらやましい」と叫んだ学友のこと。『祈りの画集』の旅のことなど、話は尽きなかった。特に野見山さんは、仲間たちが遺した作品の行方に危機感を抱いていた。

「何人かの遺族に、いつか彼らの絵を展示する施設を作りたい、なんて約束をしてね。でも今やそのご両親も亡くなっている。あれから数十年がたち、いま彼らの絵がどうなっているのかと思うと、やりきれない」

画家の思いをはかりかねた窪島さんは、率直にこう問い返したそうだ。

「僕のように戦争体験をもたない人間には、遠い時代の古びた絵の話に思えるのですが」

すると野見山さんは言った。

「1点1点はそうかもしれない。ただ、彼らは生きて絵を描きたかったに違いない。そんな思いのこもる絵が集まれば、僕たちの想像を超えた大きな声となって、聞こえてくる気がするのですよ」 こうも言った。「生き残った我々がどれほどの仕事を残したのか。彼らの絵の方が、何倍も純粋だったんじゃないかな」。

野見山さんの夢を応援したいと思った瞬間だった。「お手伝いします」


無言館は静かな森の中に立つ。この環境も、戦没画学生の遺作と向き合うための必然だった

遺族を訪ねる旅で見えた 戦争を考えてこなかった「自分」

それから3年間半に及んだ遺作めぐりの旅の詳細は、窪島さんの著作に詳しいが、野見山さんは約10組の遺族と対面した後で、「あとは任せる」と旅から離脱してしまった。窪島さんはこう回想する。

「親の世代は亡くなっており、対応してくれたのは画学生の子どもや兄弟たちでした。野見山さんは、かつての旅で感じた濃厚な戦争の記憶が世間から消えていたことに、失望しておられたのだと思います」

逆に窪島さん自身は、遺族を訪ねる旅の中で覚醒したという。

「画学生の絵を50年もの間、大切に抱えていた親族の方々と向き合うことで、初めて自分が戦争のことを何も考えてこなかった人間だと気づかされ、恥じ入りました」

北は北海道、南は鹿児島まで訪ね、計37組の遺族から87点の作品を預かった。設立趣旨に賛同する全国の戦没者遺族からの寄付金に加え、銀行からの融資を得て、十字架の形をした平屋建ての美術館が完成。招待された野見山さんは「本当に作ったんだね」と、苦笑いしていたという。


野見山さんの思いを引き受け、一人続けた遺作探しの旅によって「あの戦争」の意味を知った

無言館の開館が主要メディアに大体的に報じられると来館者が殺到。1年目は約12万人が押し寄せ、以後も数年間は10万人前後が訪れ、窪島さんもメディアの対応に追われ続けた。

だが時は残酷だ。薄れゆく戦争の記憶と共に、無言館への関心も次第に薄れつつある。開館から10年が過ぎたころの来館者は最盛期の半分まで減り、さらに10年が過ぎ、この数年は年間3万人前後で推移している。

「世間の文脈から開放したい」と窪島さん 画学生も自分も

窪島さんが「消費した」と語る背景には、戦争体験のない自分が野見山さんの夢を代行したことにより、「無言館館主」としての人生を生きたことへの違和感がある。そして「消費」の共犯者であるメディアにも、愛憎半ばする感情を抱いている。

毎年夏がくると、新聞やテレビは「戦争の記憶」をテーマにした企画報道をする。無言館にも取材依頼が寄せられ、若い記者やカメラマンがやってくる。判を押すように「あの戦争を忘れない」「戦争に散った青春」といった文脈で紹介され、一定期間、来館者数は回復する。

コロナ禍で来館者が激減したが、2022年夏にテレビドラマになり、脚色を交えた美しい物語は視聴者の心を捉えた。結果的に前年度比で1万人増という、絶大な影響力だった。

メディアに注目されることは、経営的にはありがたい。だが社会で戦争の記憶が薄れるほど、無言館そのものが「消費されている」という感覚は年々、募るという。

「ただの『経済成長男』が戦争の悲惨さを語り、『平和運動の旗手』としてメディアに紹介されてきた。記者たちは季節がくればやって来て、帰っていく。その繰り返しです。そういう『文脈』から彼らを解放して、無辜(むこ)な絵描きに戻してあげたい」

2023年6月には、野見山さんが102歳でこの世を去った。重荷を背負ってきた窪島さんには野見山さんに対する複雑な思いはあれど、「無言館にとっては大事な象徴のような画家だった」と語る。

どのように戦没画学生や作品たちを「解放」するのか。数年かけて模索した結果、方向性は見えてきた。まずその一歩として、今年6月、俳優の故・樹木希林さんの長女で文筆家の内田也哉子さんが共同館主に就任した。2015年に希林さんが無言館を訪れたことをきっかけに、内田さんも窪島さんとの対談などを通じて無言館の存在を世にアピールしてきた。そして無言館の持続可能な運営のため、別館の位置づけとなる「無言館・京都館」を展開する立命館大学と、今後一層の連携強化をはかるという。

そして窪島さん自身が戦没画学生に向き合う上での「偽りのない気持ち」についても、定まりつつあるそうだ。

「一人であの空間に立つと、なんとも言葉にできない張りつめたものを感じます。あの感じは、世界中のどの美術館にもない唯一無二のもの。あれが何かと言えば、画学生たちのひたむきさだと思う。ただひたすらに絵を描きたいのだと筆を動かし続けた彼らの営みが、共鳴し合っている。僕は彼らに問われ続けていたんですね。『お前はひたむきに生きたのか』って」


第二展示館の天井には、戦没画学生たちが残した大量のデッサンをしつらえた。まるで礼拝堂のようだ

声なき声に向き合うたびに自問し、心は揺れ動く。苦しいが、それこそが、戦没画学生たちと真正面から向き合うことだと、窪島さんは考えている。

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