原爆死没者慰霊碑と同じ御影石でできた石碑について語る日浦さん=6日、横浜市栄区で
◆言葉で伝えるのは難しくとも
原爆の日にちなんだ歌やミュージカルの楽曲が披露され、施設に穏やかな時間が流れた午後。言葉で思いを伝えるのが難しくとも、手拍子を打ち、明るい表情を見せる利用者たちの姿があった。 「命はみんな大事だと言って贈ってくれた。この石は命を支えてくれる気がする」。初代施設長の日浦美智江さん(86)は、「生きる 力いっぱい 生きる」と刻まれた碑を前に、そう語った。◆石材店を営む広島の同級生から
日浦さんは広島生まれ。戦時中は父親の仕事の関係で台湾に暮らし、終戦後に引き揚げた。「原爆の子の像」建立のきっかけとなったことで知られ、被爆の10年後に12歳で亡くなった佐々木禎子さんは、すぐ近くに住む幼なじみだった。 結婚を機に横浜市へ移住。社会福祉を学び、重症心身障害児が学校卒業後も通える施設をつくろうと「朋」を設立したころ、広島大付属高校の同級生で、石材店を営む岩崎治さん(故人)から連絡が入った。河本さん(左)らによる平和祈念コンサートを鑑賞する「朋」の利用者ら=6日、横浜市栄区で
「残った石で碑を贈りたい。何という字を彫ればいいか教えて」。1985年に原爆死没者慰霊碑の屋根部分の改築を手がけた旧友からの申し出に、障害のある人たちと過ごす中で感じていた言葉を伝えた。障害者施設と分かる文字は「そういう枠の中に入れたくない」と、あえて外している。◆広島の惨禍に思いをはせるコンサート
その後、届けられた石碑は、利用者の目に触れる施設の入り口に置いた。広島とのつながりは、聞かれれば話す程度にとどめていたが、長くボランティアで施設を訪れ、歌を披露してきた歌手の河本正文さん(69)から数年前、「ここにも平和の碑があるともっと伝えたほうがいい」と勧められた。併せて提案され、新型コロナ禍をへて実現にこぎ着けたのが、今回のコンサートだ。広島の原爆死没者慰霊碑の前に整列したG7首脳ら=2023年5月
日浦さんは利用者ら約50人とともに、命を尊ぶ「いのちの歌」や、反戦への思いを込めて74年の第1回広島平和音楽祭で発表された「一本の鉛筆」など11曲に聞き入った。生まれ育った広島の惨禍にも思いをはせ、「力いっぱい生きている命を大事にする」と誓った。 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。