疎開先で撮影された着物姿の集合写真。後列左から4人目が斉藤清子さん

 戦時下でも、子どもたちに楽しい思い出を残してあげたい。  そんな切実な思いが見て取れる写真が残されている。太平洋戦争末期の元旦に、着飾った子どもたち。写真に写る斉藤清子さん(90)=東京都目黒区=は「多くの人に見てもらい、戦時中の子どもの様子も知ってもらいたい」と願う。(中村真暁)

◆目黒区の尋常小学校5年生、集団で甲府市へ

疎開先での様子や親が持たせてくれた着物について話す斉藤清子さん

 あどけない表情の晴れ着姿の少女23人。リボンを付けている子も、羽子板を持つ子もいる。1945(昭和20)年元旦、甲府市で撮影された白黒写真。苦しい生活の中、華やいだ一瞬を切り取った。  写っているのは、東京の旧原町尋常小学校(現目黒区原町小学校)5年生の少女たち。親元を離れて甲府市へ集団疎開していた。「お餅も、おせちも、お年玉も、何もないわびしい新年でした」  「戦争に勝つため」と、子どもも質素倹約に努めなければならなかった。それでも楽しく過ごしたかったのだろう。「正月だから、着物を着ようか」。誰となく、声が上がった。

◆内緒で忍ばせた七五三の着物

 疎開先には、生活必需品だけを持参することになっていたはず。でも、ほとんどの子が内緒で着物を忍ばせていた。それも、七五三のときに作った一番いい絹の着物。「わが子とはもう、生き別れるかもしれない。そう思った親が、娘の一番の宝物を持たせたのでしょうね」。晴れ着を持たない子には、何着か持っていた子らが貸してあげて、皆で着飾った。

疎開先で撮影された着物姿の写真を前に、当時の様子を話す斉藤清子さん

 写真には、少女たちに協力した大人の姿もある。様子を見ていた女性教師や寮母らが着替えを手伝い、写真店の人を呼んで寮の前で撮影してくれた。「子どものことを思ってくれる大人がいなければ、撮影できなかった」  撮影から約5カ月後、空襲で目黒区の実家は全焼した。7月には甲府市にも焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。斉藤さんもクラスメートらも一命を取り留めたが、逃げたときは怖くて、夏なのに歯がガチガチ音を立てるほど、震えた。出征した3人の叔父は亡くなり、2人は遺骨すら返ってこなかった。

◆戦後、教壇で体験伝える

 戦後、小学校の教師となり、目黒区や大田区などで教壇に立った。6年生の担任をすれば必ず、自身の戦争体験を子どもたちに伝えた。「平和の大切さを伝えることこそが、学校教育の根本だから」

疎開先で撮影された着物姿の写真を手に当時の様子を話す斉藤清子さん

 写真は疎開から戻った後、幼い弟がいたずらして破いてしまった。裏に紙を貼ってつなぎ、ずっと宝物にしていた。高齢となり、区への寄贈を考えている。  「戦争は今も、世界中で起きている。皆が子どもたちの笑顔をなくしてはいけないと考えれば、戦争でつらい思いをする国がなくなると思う。それが、あの戦争を生き抜いた少女たちの願いです」 

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