徳田氏は、鹿児島県の徳之島町出身で、大阪大学医学部を卒業後、1973年から病院経営を始め、その後、医療法人「徳洲会」を創設しました。

徳田氏は医療改革を掲げて衆議院選挙に「鹿児島県旧奄美郡島区」から立候補し、2度の落選を経て1990年の衆議院選挙で初当選しました。

徳田氏と当時戦った自民党の保岡興治元法務大臣との選挙戦は、選挙区を二分する激しいもので、2人の名前になぞらえて「保徳戦争」とも呼ばれました。

合わせて4回当選した徳田氏はみずからが設立に携わった「自由連合」で代表を務め、村山内閣では北海道・沖縄開発庁の政務次官を務めました。

徳田氏は2005年に政界から引退し、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病、ALS=筋萎縮性側索硬化症の療養を続けていました。

2010年には、沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設問題をめぐり、当時の鳩山総理大臣から出身地の徳之島に部隊や訓練の一部を移転したい考えを伝えられ、極めて難しいという認識を示していました。

また、2012年の衆議院選挙をめぐる「徳洲会」グループの選挙違反事件では、東京地検特捜部は、徳田氏が選挙運動全体をとりまとめる「総括主催者」とみて捜査を進めていましたが、難病で回復の見通しも立っていないなどとして、起訴猶予になりました。

家族や関係者によりますと、徳田氏は10日夜、入院先の神奈川県内の病院で亡くなりました。

86歳でした。

選挙違反事件ではALSで起訴猶予に

徳田虎雄氏は、徳洲会グループの選挙違反事件で、東京地検特捜部の捜査の対象になりましたが、難病の影響もあり起訴猶予となりました。

この事件では、2012年の衆議院選挙に鹿児島2区から立候補した徳田氏の次男を支援するため、全国の病院などから職員を違法に派遣したほか、選挙に使う裏金を準備したとして、親族や徳洲会の幹部などが公職選挙法違反の罪で起訴され、その後、有罪が確定しました。

特捜部は徳田氏についても選挙運動をとりまとめる立場にあったとして捜査を進めましたが、筋肉が萎縮する難病、ALSを患っていたことから捜査を中止し「違法な選挙運動を主導したことは証拠上間違いないが裁判に出廷させ刑事責任を問うのは難しい」などとして起訴猶予にしました。

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