ことし5月、水俣病の患者や被害者の団体と伊藤環境大臣との懇談の場で、団体のメンバーの発言途中に制限時間を過ぎたとして環境省の職員がマイクの音を切ったことから、抗議の声が上がり、大臣が再び水俣市を訪れ、直接、団体側に謝罪しました。

環境省は、8つの団体と大臣との懇談の場を改めて設定し、7月8日と10日、それに11日の3日間の日程で行われる予定です。

懇談は、いずれも時間に制限を設けずに行うということです。

8日は、このうち6つの団体が水俣市で懇談し、患者の認定制度の見直しや生活の実情に合わせた支援の拡充のほか、水俣病が起きた不知火海沿岸地域の住民への健康調査の実施などを訴えることにしています。

このあと、10日は再び水俣市でマイクを切られた男性が所属する団体と大臣が懇談し、11日は水俣病の発生地域の鹿児島県長島町の獅子島と熊本県天草市の御所浦島で懇談が行われ、団体側は離島に暮らす被害者への支援の見直しなどを求める方針です。

“マイク音切り問題”経緯

環境省の職員が水俣病の被害者の発言中にマイクの音を切った問題は、患者や被害者の団体と伊藤環境大臣との懇談の場で起きました。

こうした懇談は例年、水俣病が公式確認された5月1日に合わせて熊本県水俣市で行われている犠牲者の慰霊式のあとに実施されています。

ことしは患者団体など8つの団体と伊藤大臣が懇談し、持ち時間として設定された3分の中で、団体側が高齢化に伴い年々悪化する症状の苦しみを訴えたほか、患者の認定制度の見直しや被害の全容を把握するための健康調査を実施することなど、国への要望などをそれぞれ述べました。

この中で、被害者団体の副会長を務める82歳の男性が、漁をしながら長年連れ添ってきた妻が水俣病の患者として認めてほしいと申請を続けたのに認められず、去年、苦しんで亡くなったことについて、発言している途中に、司会役の環境省の職員から「時間なのでまとめてください」と促され、その後、マイクの音を切られてマイクを回収されました。

このほか、別の団体のメンバーが発言していた際にも、持ち時間が過ぎたとしてマイクの音が切られて発言を遮られる場面があり、団体側から抗議の声が相次ぎました。

環境省によりますと、各団体の発言時間を3分間とする運用は、少なくとも2017年から取られていたということです。

この問題を受けて、懇談から1週間後の5月8日、伊藤大臣が再び水俣市を訪れ団体側に謝罪し、団体側は改めて懇談の場を設けるよう要望していました。

音切られた男性の支援者「国は謝ることや償うこと恐れずに」

ことし5月の懇談で環境省の職員からマイクの音を切られた82歳の男性が所属する、水俣病の被害者団体の事務局長は、改めて行われる8日の懇談について、「国は謝ることや償うことを恐れず、患者や被害者がこのあとの人生を少しでも幸せに生きられるような話の聞き方、答え方をしてほしい」と話しています。

被害者団体「水俣病患者連合」の事務局長を務める永野三智さんは、熊本県水俣市出身で、患者や被害者の支援を長年続けています。

永野さんは、ことし5月の懇談に向けて、被害者団体の副会長、松崎重光さん(82)が、水俣病と認められず苦しみながら去年亡くなった妻の悦子さんについて、伊藤環境大臣に伝えようと必死に練習を重ねる姿を見つめ続け、懇談の際には松崎さんの隣に座って臨みました。

そうした中で起きた今回の問題について、「患者や被害者の声がこれまで踏みにじられてきたことを象徴するのが、マイクオフの問題だった。松崎さんは当日、思いがあふれてことばにならず、とても3分では語り切れなかった。マイクを切られた時、私はのどをかき切られたような思いで、とても無力だった」と振り返りました。

懇談のあと松崎さんは体調を崩していましたが、松崎さんたちの元には全国の小学生からエールを送る内容の手紙が届いたということで、永野さんは「小さな声がたくさん届いた。松崎さんをひとりにしなかった」と語りました。

松崎さんは、団体のメンバーとともに、10日に水俣市で伊藤大臣と懇談を行う予定だということです。

患者や被害者の高齢化が進む中、再懇談に向けて環境省と日程の交渉を進めてきた永野さんは、「患者側だけでなく、国にとっても今回が最後のチャンスだと思う。謝るとか償うことを恐れないでほしい。患者や被害者がこのあとの人生を少しでも幸せに生きられるような話の聞き方、答え方をしてほしい」と話していました。

かつて行政や政治の立場から水俣病問題に関わった人たちは

かつて行政や政治の立場から水俣病の問題に関わった人たちからは、再度の懇談で、環境省は患者側と一緒に考え、信頼関係を築く必要性があると指摘する声があがっています。

環境省元事務次官 “省の役割変化し 認識薄れたか”

2003年から3年余り、環境省の事務方のトップ、事務次官を務めた、炭谷茂さん(78)は、今回の問題が起きた背景のひとつには、環境省の役割の変化があると指摘しました。

炭谷さんは「環境省が向き合う問題が、地球温暖化や生物の多様性などに移り、公害問題のウエートがだんだんと落ちていった。水俣病が発生しなければ環境庁は生まれなかったと言っても間違いではなく、環境省にとって重要なものでありながら、認識が薄れてしまったことは、大変残念なことだと思う」と語りました。

そのうえで炭谷さんは「被害者と行政の対立構造で考えているところが環境省にはあると思う。対立構造ではなく、一緒になって考え、取り組んでいくことが必要だ」と述べました。

元環境庁長官 “虚心坦懐に話し合える信頼関係を”

元衆議院議長で、1995年から1996年にかけて環境省の前身の環境庁長官を務めた、大島理森さん(77)は、当時、水俣病の患者と認められず国などに対して裁判を続ける人たちに、訴えの取り下げを条件として一時金を支払う「政治解決」の実施に向け、支給額や行政責任のあり方などをめぐって、与党内部の調整や被害者団体との交渉を担いました。

今回の問題について、大島さんは「慣例的に行うというところに少し流れすぎていたのだと思う。水俣病問題においては、それぞれが環境が異なる中で苦しみを抱えている。そういう方々の思いをしっかりうかがっておくのは大事なことだ」と述べました。

そのうえで、再度の懇談について、「大臣は『大変申し訳なかった』という気持ちを述べている。それを乗り越えて、互いに虚心坦懐(きょしんたんかい)に話をし合える信頼関係を築いてもらいたい」と語りました。

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