菊池恵楓園では戦時中、旧陸軍が開発を進めていた「虹波」と呼ばれる薬剤の臨床試験が入所者を対象に行われたとする資料が残されています。

園の歴史資料館は入所者でつくる自治会からの要請を受けて去年4月から調査を進め、24日、園の会合の中で中間報告を行いました。

それによりますと、「虹波」は写真の感光剤を合成した薬剤で、抗菌作用があったとされ、研究の目的は国民の体質を向上させ、軍事作戦で応用するためだったとしています。

臨床試験の期間は戦時中の1942年12月から戦後の1947年6月にかけてで、少なくとも入所者472人に虹波が投与され、試験中に9人が死亡し、このうち2人は薬剤投与との因果関係が疑われるとしています。

歴史資料館の原田寿真学芸員は「入所者は生活基盤などが療養所のほかに剥奪され、療養所の方針には基本的に従わざるをえなかった部分があり、投与にはある程度の強制性が認められる。医学的に正しい手法や倫理的に正しい手続きがとられていたか、明らかにされるべきだ」と述べました。

「虹波」はほかにも入所者370人に投与された可能性があるということで歴史資料館は今後、さらに詳しく調査を進めることにしています。

「虹波」とは

旧陸軍が開発を進めていた「虹波」は、写真フィルムの発色に使われる化学薬品の感光剤を合成した薬剤で、抗菌作用があったとされています。

2014年に熊本県がハンセン病患者の隔離政策についてまとめた報告書によりますと、1943年に菊池恵楓園の当時の園長が軍に提出した記録には虹波を投与した入所者172人のうち2人が死亡したと報告されていました。

投与との因果関係については「決定し難し」と記されています。

また、その翌年に提出された記録では、投与した人の数はわかりませんが、22.2%で副作用が現れ、発熱やけん怠感に加え、「全身の血管に針を刺し入れたような痛み」を訴える人がいたことも記されています。

菊池恵楓園とは

菊池恵楓園は1909(明治42)年、当時の法律にもとづいて全国5か所に設置されたハンセン病の患者を収容する療養所の1つ、「九州らい療養所」として現在の熊本県合志市に開設されました。

その後、「らい予防法」の制定などによってハンセン病の患者が強制的に収容されるようになり、入所者は1958年のピーク時で1734人でしたが、現在は今月1日の時点で126人となっています。

また、入所者の平均年齢は87.5歳と高齢化が進んでいます。

菊池恵楓園には国の隔離政策の一環として、全国で唯一のハンセン病患者専門の刑務所が設けられていましたが、現在は取り壊され、跡地には3年前、小中一貫の公立学校が開校しました。

園内には、入所者の無断外出を防ぐために設けられた「隔離の壁」など、差別の歴史を今に伝える施設が残っていて、厚生労働省は、これらの施設をハンセン病問題の啓発のために歴史的建造物として保存することにしています。

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